円香は急に足を止め、思わず息を飲んだ。
思わず唇の端を吊り上げ、唇を微かに動かし、いつものように「祐…」と彼を呼びかけようとした。
「侑樹さん」突然、横から女性の甘い声が聞こえた。ハイヒールを履いた女性が彼女の後ろから、小走りで侑樹の元へと駆け寄った。
そして彼女は侑樹の腕にしがみつき、目を細めて笑いながら「侑樹さん、行こう」と言った。
円香は言葉に詰まり、思わず青ざめた。この一瞬で、自分は完全な笑い者になってしまった!
侑樹は彼女を一瞥し、唇の端に嘲笑を浮かべ、タバコを消して車に乗り込んだ。
そして、もう二度と彼女の方に振り向かなかった。
…
時差ぼけが治っていないせいなのか、それとも他の原因なのか、円香は寝返りを打ち続け、一晩中ほとんど眠れなかった。
翌日、円香は一階に降りた。
予想通り、リビングのソファに座っている園田父と園田母が視界に入った。二人とも憂いに満ちた表情で、まるで空が崩れ落ちたかのようだった。
円香は知らぬ顔をして歩み寄って、「どうしたの?」と声をかけた。
園田父は落ち込んでいたようで、彼女を一瞥して、ただ黙り込んだ。
園田母が深くため息をついた。「中村社長が大変なことになったの」
「え?」円香はソファーに腰を下ろし、わかっていながらも尋ねた。「何があったの?」
「誰かが中村社長が浮気をしたことを、奥さんに教えたせいで、今は家庭が崩壊寸前に追い込まれたんだ」
それを聞いて、円香は驚いたふりをして、「そうなんだ…」と相槌を打った。
それは当然、彼女の仕業だった。彼女は人脈を使って中村社長の状況を調査した。彼は妻側の力を借りて成功したものの、金持ちになってからは当たりの強い妻を嫌い、外で女遊びをしまくって、愛人を囲い始めた。ただ、ずっと徹底的に妻に内緒にしていたため、今まで気づかれなかっただけだった。
彼女は昨夜、集めた資料を中村夫人のもとへと送った。
園田母は続けて言った。「それに、今朝中村社長の会社は脱税の疑いで調査を受けた。今は身を保つだけで精一杯だから、もう彼には頼れないわ!」
円香の思考が急に停止した。今度は本当に驚いて、美しい瞳を少し見開いた。
浮気をばらしたのは彼女だったが、脱税行為の摘発は別の誰かの手によるものだ。他人の会社を調査できるほど、彼女の人脈は強力ではなかった。
偶然なのか?
それとも、神様でさえ見過ごすことができず、天罰を下ったのか?
しかし、それはあのクズ男に相応しい報いだ!
…
江川おばあさんの還暦祝いが近づいてきた。
園田父はどこからか招待状を手に入れ、円香に江川おばあさんのお祝いに行くよう言った。
当時の縁談が破談になって以来、江川家と園田家は付き合いを断ち切った。父の真の目的は江川おばあさんの祝いではないことは、円香はもちろん知っていた。
園田家は経営不振が続き、2年前に江川氏からもらった投資でしばらくは持ちこたえたものの、業績の悪化に歯止めがかからず、今や倒産の危機に陥ってしまった。
だから円香と侑樹の関係が完全に断ち切られてしまったとしても、彼はまだ諦めきれないでいた。
円香は行きたくなかった。侑樹は彼女を無視したし、既に新しい恋人ができた。これ以上恥を晒したくなかった!
「お父さん、侑樹に二度と彼の前に現れるなと言われたんだ。それに、江川家から金をもらったことがあったから、さすがに二度目はもうないよ」
円香の率直な言葉に園田父は顔を歪め、怒りで手を振り上げようとした。
園田母は彼を止めて、首を横に振ってから、優しく円香に言った。「円香、誤解だよ。君と侑樹の仲がこうなってしまった以上、私たちはもう何も期待していないわ」
「それに、この2年間、侑樹は林田家のお嬢様と仲が良くて、婚約の話も出ているそうよ。彼はもう君を捨てたのだから、今更振り向くわけがないわ!」
円香は無意識に指を握り締めた。
林田家のお嬢様は…あの日、クラブのエントランスで見かけたあの女性なのだろう…
園田母は話を変えた。「でもずっと江川おばあさんに可愛がられてきたでしょ。帰国した以上、お祝いをしに行くのは当然じゃない?」
「もしかしたら、彼女は君に免じて、私たちを助けてくれるかもしれないわ」
江川おばあさんは確かに円香の成長を見守ってきて、とても可愛がってくれていた。侑樹と付き合ってからは、さらに良くしてくれた。彼女にとっても、江川おばあさんは実の祖母のような存在だ。
円香は国内に長く滞在するつもりはない。なぜなら、国内にいる限り、父親は資金のために彼女を商品扱いをし続けるからだ。国内にいる限り、彼女は永遠に安らぐことはできないだろう。
彼女は既に航空券を予約し、数日後に海外に行くと決めた。今回国を出たら、いつ戻ってこられるかわからない…
円香は一度目を閉じ、ゆっくりと開いて答えた。「わかった。江川おばあさんをお祝いに行くわ」
園田父と園田母は思わず喜色を浮かべた。
「でも、それ以外のことは一切ないよ!」
二人の笑顔は一瞬にして凍りつき、顔を見合わせた。
…
江川家の屋敷は煌びやかな照明を浴びせられ、大広間は豪華に飾られていた。
円香が屋敷に踏み入れた時、懐かしさに一瞬胸が締め付けられた。2年経っても、ここは彼女の心を揺さぶるほど慣れ親しんだ思い出の場所だ。
ここは自分の家になると思っていた。今はすべてが変わってしまった。
彼女は深呼吸をして、心を落ち着かせた。
今日の円香は控えめな装いで、人目を引かずに、ただプレゼントを渡し、お祝いの言葉を言って帰るつもりだった。
顔を上げて周りを見渡すと、江川おばあさんが客たちに囲まれて談笑している姿が見えた。喜ばしい出来事で気分が良いのだろうか、とても元気そうなおばあさんを見て、彼女も思わず優しい笑みを浮かべた。
すると、お似合いなカップルが手を繋いでやって来て、江川おばあさんの前に立ち止まった。端正な顔立ちで男前の男性と、愛らしくて綺麗な女性は、まさに侑樹と林田家のお嬢様、林田茜(はやしたあかね)だった。
茜は手に持っていた贈り物を江川おばあさんに渡した。何を言われたのか、江川おばあさんは顔を輝かせて笑った。
三人がそこで和気あいあいと話している様子は、まるで既に家族になったようだった!
もうとっくに知っていたとはいえ、この光景を目の当たりにすると、あってはならない心の痛みが込み上げてきた。
彼女がまだ期待を抱いていたからこそ、あの匿名メールの戯言を信じてしまったのだ。もし侑樹が当時婚約を破棄したことに別の原因があったのなら、この2年間で新しい恋人とこんなに仲睦まじくなるはずがないよ…
円香は彼らに背を向けて、唇を強く噛み締めた。
これらすべては、もう彼女とは関係ない。今日の任務を果たせば、侑樹と…二度と会うことはないだろう!
今江川おばあさんにお祝いを言いに行くのも適切ではないし、もしかしたら邪魔になるかもしれない。なので、円香は贈り物受付の方へと向かった。
プレゼントを担当の使用人に渡した後、彼女は江川おばあさんの方に向かって、人混みを隔てて、心の中でお誕生日おめでとうと言た。そして振り返って決然と立ち去った。
円香が玄関を出て、携帯を取り出してタクシーを呼ぼうとした時、突然、誰かに鼻を押さえられた。
誰だ?
円香は反射的に抵抗しようとしたが、反応する間もなく、視界が暗転し、体が崩れ落ちた。