「痛い……」
帝王切開の傷口が引き裂かれ、夏川清美の体には薄い汗が滲んだ。
先ほどの勢いよく座った衝撃が傷に響き、鮮血がじわりと滲み出す。しばらく立ち上がれずにいたが、看護師の誰一人として彼女に気を留める者はいなかった。
病室の前に座り込んだまま、林夏美の泣き叫ぶ声を遠くに聞きながら、夏川清美の唇には冷ややかな笑みが浮かんでいた。ふと顔を上げると、逆光の中、気品あふれる男性が歩いてくるのが見えた。
午後の日差しを浴びたその姿は、顔立ちがはっきり見えないほど神々しく、それでいてどこか現実離れしていた。
近づくにつれ、彼の端正な顔立ちが明らかになる。品のある気高き雰囲気、彫刻のように整った顔。琥珀色の瞳は光を受けて金の輪を宿し、まるで猫の目のように鋭くも神秘的だった。
まるで人間離れした美しさだった。
前世で数多の美男子を見てきた夏川清美ですら、こんな男には出会ったことがなかった。思わず見惚れる。
「失礼、お嬢さん、少し通してもらえますか?」
清らかで落ち着いた声。どこか気だるげな響きを含みながらも、耳に心地よい低音。
見下ろすような立ち位置なのに、彼の振る舞いは洗練されていた。ただ、その美しい瞳は夏川清美の伸ばした片足を見て、僅かに眉を寄せた。
夏川清美はようやく、自分が「お嬢さん」と呼ばれたことに気づく。広い廊下を見回し、改めて自分の足の位置を確認する。
「ああ……」そう返事をしたものの、すぐには動けなかった。
この太った身体を動かせば、確実に傷口がさらに痛む。美男子の存在すら忘れ、苦しげに息をつくと、汗が再び滲み出た。思わず口をついて出たのは――
「すみません、少し手を貸してもらえますか?」
言った瞬間、彼に頼んだことが少し場違いだったと気づいた。
「健二」
男が短く呼ぶと、すぐ後ろから鍛え上げられた体つきの中年の男が現れた。一目でただ者ではないとわかる佇まい。
その男は無言のまま夏川清美の曲げていた脚をまっすぐに揃え、「結城様、どうぞ」と恭しく言った。
重い身体を動かすことなく、男は優雅に夏川清美の足を跨いで歩いていく。その姿を見た瞬間、夏川清美の好感は一気に地に落ちた。
「頭おかしいの?」
その一言が自然と口をついて出た。
相手が振り向く前に、さらに付け加える。
「……心臓病か何か?」
足を止めた男が、静かに夏川清美を見下ろす。
琥珀色の瞳は光を失い、ひどく冷えた陰を宿していた。しかし、それすらも彼の美しさを損なうことはなかった。
ただ――「顔色が悪いな……」彼の肌は不自然なほど青白く、まるで病の影が張り付いているようだった。
その視線が夏川清美に向けられた瞬間、まるで身体ごと貫かれるような圧を感じた。だが夏川清美は、怯むことなく彼を見返した。
奇妙だった。彼女の感覚は、前世よりも鋭敏になっている気がする。まるで直感が研ぎ澄まされたような……これは、転生の「特典」なのだろうか?
「結城様」健二が低く呼びかけると、男は視線をそらし、黙って病室の中へと消えていった。
夏川清美は頭を振って、ようやく重い身体を持ち上げた。背中は冷や汗でぐっしょり濡れ、傷口の痛みはますます鋭くなっていた。
さっきの「礼儀知らずな美男子」などどうでもいい。今はもっと大事なことがある。
――原主の子供はすでに連れ去られ、林夏美はその子を利用して、母の威光でのし上がろうとしている。
もし相手が原主のままだったなら、林夏美の計画はきっと成功していた。だが、今の彼女は夏川清美だ。
林夏美が自分を踏み台にしようとしているなら……夢でも見ているつもりでいればいい。
だがその前に、「この身体、どうにかしなきゃ……」
夏川清美は原主のこの脂肪だらけの体を見つめ、思わず眉をひそめた。彼女の強迫観念が倍増するほどの不快感を覚えたが、先ほどの痛みが冷静さを取り戻させた。この体は今、授乳期にある。今の段階での無理なダイエットは適していない。
それどころか、これから百日間は慎重に身体を養わなければならなかった。授乳期は、女性が後天的に体質を変える唯一の機会である。
彼女はイェール大学医学部で心臓外科を学んだが、もともと中医の名家に生まれた。長年、外科医としての道を歩みながらも、中医学に関する知識は決して忘れたことはなかった。
身体の調整も、減量も、すべては時間をかけて行うべきこと。
心の中で方向性が決まり、とりあえずこの脂肪に目をつぶることにした夏川清美は、原主の記憶をたどりながら、子供のことを探ろうとした。
しかし、原主はその件に対して強く拒絶していたため、記憶が極めて曖昧だった。彼女が唯一知っているのは、鈴木おばさんから聞かされた「子供の父親は結城様」ということだけで、容姿すら記憶にない。
ましてや、林夏美がどのようにして自分に成り代わったのか――それは完全に謎に包まれていた。もっとも、それらの謎はさほど重要ではなかった。夏川清美は確信している。
林夏美がいる限り、真相はいずれ明るみに出る。そして、「骨や筋を傷めたら百日」この身体を癒す百日の間、林夏美も楽には過ごせないはずだ。
— 高級病室 —
手術室から運ばれてくるなり、林夏美は激昂した声を上げた。「ママ!あの女を殺してやる!!」
分厚いギプスが巻かれた足をわずかに動かしただけで、骨に響くような鋭い痛みが走る。怒りと憎悪に満ちた彼女の美しい顔は、醜く歪んでいた。
「夏美ちゃん、落ち着きなさい。ここは病院よ。あのデブを始末する機会なら、いくらでもあるわ。今大事なのは結城様でしょう?」鈴木末子も負傷していたが、痛みをこらえつつ娘をなだめる。
「……結城様、本当に来るの?」林夏美は、その名を聞いた途端、険しい表情を和らげた。
「もちろんよ。」鈴木末子は自信満々に頷く。
林夏美の脳裏に浮かぶのは、結城陽祐(ゆうき ようすけ)――その品のある美貌、優雅で繊細な顔立ち、女性すらも凌駕する美しさ。頬がわずかに赤く染まる。「ママ、あの女をしっかり監視しておいて。結城様に見られたくないわ。」
「心配ないわ。結城様が認識しているのは"あの夜の相手は夏美ちゃん"という事実だけよ。それに、あの女はあんなにデブになってしまったんだから、林富岡(はやし とみおか)ですら気づかないかもね。」
鈴木末子は含み笑いを浮かべた。「そうね。」
林夏美はようやく安心した様子を見せたが、ふと何かを思い出したように呟く。
「でも……どうせ長くはない命でしょ。」
「まったくね。」鈴木末子も、わざとらしく残念そうにため息をつく。
――そのとき。
病室の前まで運ばれてきたストレッチャーの側で、看護師の誰かが思わず息をのむ音が聞こえた。
林夏美が顔を上げる。視線の先に立っていたのは――玉のように端正な顔立ちの美丈夫だった。
「け…結城様…」