明日になったら彼のことは忘れなきゃ

月見荘。

藤沢蒼汰(ふじさわ そうた)は坂本加奈の赤いスーツケースを執事に渡し、親切心から注意を促した。「坂本お嬢様、黒川社長は見知らぬ人が自分の部屋に入ることを好みませんので、寝室と書斎以外なら、どこでも自由に使っていただけます」

坂本加奈は、黒川浩二が自分の引っ越しを承諾したのは兄のおかげだと分かっていたので、藤沢蒼汰の注意を不快に感じることなく、むしろ笑顔で頷いた。「ありがとうございます」

藤沢蒼汰は執事に目配せをし、執事はそれを理解して「どうぞ」と案内するしぐさをした。「坂本お嬢様、こちらへどうぞ」

加奈は執事について二階へ向かいながら、何か思い出したように立ち去ろうとする藤沢蒼汰の方を振り返り、言いかけて止めた。「あの、黒川お嬢様は…」

藤沢蒼汰は声を聞いて足を止め、振り返って執事を一瞥してから簡潔に答えた。「明日、お迎えの者が参ります」

加奈は理解し、それ以上は何も言わず、「さようなら」と告げた。

執事は加奈を二階の南側、一番日当たりの良い部屋へと案内した。「坂本お嬢様、このお部屋はいかがでしょうか?もしご不満でしたら、他のお部屋をご用意いたしますが」

加奈は入り口に立って部屋を見渡した。清潔で明るく、日当たりも抜群だった。そして密かに思った。黒川さんは本当に良い人だわ!

自分の願いを聞き入れてくれただけでなく、こんな良い部屋まで用意してくれるなんて。

加奈は黒川浩二の邪魔にならないよう、夕食は執事に部屋まで運んでもらい、食事を済ませてからスーツケースからパジャマを取り出してシャワーを浴び、柔らかなベッドに横たわった。

一日中バタバタしていて、実際にはとても疲れていたのに、目を閉じると頭の中がガンガンして、眠れなかった。

林翔平が去っていく場面を思い出すたびに、胸が締め付けられるような悲しみを感じた。

でも、彼は本当に自分のことを好きではなかったのだ。もし好きだったのなら、こんな大切な日に自分を置き去りにして、自分の気持ちや面目を全く考慮しないはずがない。

加奈は目を開けて起き上がり、深く息を吸って、自分を励ました。

「坂本加奈、今夜だけは彼のことで悲しんでもいい。でも今夜が過ぎて、明日になったら彼のことは忘れなきゃ…生きていくなら、しっかりと前を向いて生きていかなければ」

加奈はほとんど一晩中眠れず、夜明け近くになってようやくうとうとし始めたが、すぐにノックの音が聞こえ、執事がドアの外から運転手が到着したことが分かった。

携帯を見ると8時30分だった。慌てて返事をし、布団から出て身支度をした。

階段を降りると、執事が階段の下で待っていた。「坂本お嬢様、何かお召し上がりになりますか?すぐにシェフに準備させます」

加奈は首を振って答えた。「大丈夫」そして、玄関にいる運転手の方を見て言った。「行きましょう」

運転手は加奈を乗せて墨都のある私立病院に到着し、病室の前まで案内してから去っていった。

病室の前に立っていた藤沢蒼汰がドアを開け、「どうぞ」と案内した。

加奈が病室に入ると、ベッドの傍らに座る男性の姿が目に入った。上着は着ておらず、白いワイシャツ姿で、ネクタイもせず、袖をまくり上げており綺麗な手首が見えていた。

彼はちょうどベッドに横たわる少女の顔を拭き終えたところで、タオルを看護師に渡した後、鋭い眼差しを加奈に向けた。

広々とした掃き出し窓からは金色の光が差し込みベッドまで伸び、横たわる少女の手に当たっていた。白い肌は、まるで透けて見えるかのようで、血管までくっきりと浮かび上がっていた。

十七、八歳くらいの様子で、眉目の間に黒川浩二と似た面影があった。

これが黒川浩二の妹、黒川詩織(くろかわ しおり)だった。半年前、彼女は不慮の溺水事故に遭い、一命は取り留めたものの、意識が戻らないままだった。

黒川浩二はあらゆる専門家や教授を回ったが、誰も手の施しようがなかった。

だからこそ彼は不思議に思っていた。目の前のこの平凡な少女が、どうやって詩織を救えるというのだろうか。