「眠くないの」と坂本加奈は答えた。彼女は以前からよく不眠に悩まされていたので、もう慣れていた。
「そうだ、私が作った蟹味噌まんじゅう、食べてみませんか?」なぜ寝ないのかと聞かれそうになったので、機転を利かせて話題を変えた。
彼女の話題転換は少し不自然だったが、黒川浩二はそれを指摘せず、淡々とした口調で「朝のジョギングに行くところだ」と言った。
「あぁ」坂本加奈はピンク色の唇を少し尖らせた。失望というわけではないが、せっかく一生懸命作った料理を誰とも分かち合えないのは少し残念だった。
「戻ってきたら、まだ起きているなら食べてみよう」
坂本加奈の伏せていた瞳が急に輝き、彼を見つめる目には星のような光が宿っていた。「はい、いいですね!」と笑顔で答えた。
黒川浩二はキッチンを出て、朝のジョギングに向かった。
坂本加奈は一晩中眠れず、蟹の身を剥くのに腕が痛くなり、肩も凝っていたが、突然疲れが消えたように感じ、むしろより元気になった。
1時間後、黒川浩二はジョギングから戻り、シャワーを浴びて運動着を着替え、白いワイシャツ姿でダイニングテーブルに座った。
坂本加奈は蒸籠を開け、拳大の蟹味噌まんじゅうから湯気が立ち上っていた。さらに小さな茶碗に入れた粟のお粥を彼の前に置き、「黒川さん、このお粥は3時間かけて煮込んだんです。召し上がってみてください」
黒川浩二は一口食べ、横目で彼女を見た。「料理が上手なんだな?」
前に作った麺も、今日の蟹味噌まんじゅうも申し分なく、プロの料理人にも引けを取らなかった。
「以前田舎で暮らしていた時、隣に料理人のおじいさんがいて、そのお家は代々宮廷料理人だったそうです。暇があれば、私はいつもその方の台所で料理を見せてもらっていました」
黒川浩二は眉を少し上げただけで、何も言わず静かに朝食を続けた。
坂本加奈は彼が蟹味噌まんじゅうを箸で取るのを見て、気遣わしげに「黒川さん、蟹味噌まんじゅうはスープが多めで、まだ熱いかもしれません。お洋服に掛からないようにご注意ください」と言った。
黒川浩二は箸を置き、彼女の方を向いて「私はそんなに年寄りに見えるのか?」と言った。
「えっ?」坂本加奈は一瞬、彼の言葉の意味が理解できなかった。
「俺は君の兄と友達だ。道理から言えば、兄さんと呼んでもいいはずだ」男性は薄い唇を閉じ、不機嫌そうな口調で言った。
確かに彼女より10歳近く年上だが、坂本真理子との関係で同世代と言える。彼女は初対面から今まで、一言一言「です・ます」調で話し、まるで70、80歳の老人のように扱っていた。
坂本加奈は言葉に詰まった。敬称一つで彼の機嫌を損ねるとは思わなかった。桜色の唇を軽く噛み、真面目な表情で説明した。「ただ、あなたへの敬意を表したかっただけです。だって、あなたは…」
言葉を途中で止めた。
だって、あなたは黒川家の当主で、黒川グループを経営し、墨都の経済の命運さえも握っているのだから。
自分は他人の庇護の下で頼みごとがある身なのだから、慎重にならざるを得ない。
黒川浩二は彼女が何を言いたいのか分かっているようで、薄い唇を開いて「ここに住んでいる間は堅苦しくしなくていい。君の兄さんに虐めていると思われたくない」と言った。
彼はただ不思議に思っていた。天まで昇りたがる吉田美佳のような男に、どうしてこんなに素直な妹がいるのかと。
兄の話が出たせいか、坂本加奈の顔に笑みが浮かび、甘い声で「そんなことありません。兄には、あなたが私にとても良くしてくれていると伝えます。あなた…」
黒川浩二が横目で彼女を見ると、坂本加奈はすぐに言葉を切り、「兄には、とても良くしてくれていると伝えます」と言い直した。
黒川浩二は唇の端を少し上げただけで返事はしなかった。どうせ彼女が言っても、坂本真理子は信じないだろう。
朝食を済ませると、黒川浩二は会社へ、坂本加奈は学校へ行く時間だった。
黒川浩二は彼女の背中のピンク色の画材バッグに目を留め、何かを思い出したように「普段は学校にどうやって行くんだ?」と尋ねた。
彼の知る限り、月見荘の近くには地下鉄はなく、最寄りのバス停まで3キロ歩かなければならなかった。