第70章 「お兄さん」と呼んでくれなかった

部屋の中で、佐藤和音は机に向かって、宿題をしているようだった。

佐藤和音が顔を上げると、佐藤正志と視線が合った。

ノックの音を聞いて、和音は使用人が温かい牛乳を持ってきたのだと思った。

ノックしたのが佐藤正志だとは予想していなかった。

和音は視線を外し、傍らにあった宿題を取り出して、今書いていたレポートの上に被せた。

正志は和音の前まで歩み寄り、しゃがみ込んで、座っている和音と目線を合わせた。

「和音」

正志が呼びかけた。

和音は振り向いて彼を一瞥したが、本能的に体を後ろに引き、正志との距離を少し広げた。

和音はまだ他人との距離が近すぎるのに慣れていなかった。家族の女性たちはまだましだが、男性とはやはり馴染めなかった。

和音のこの本能的な反応に、正志は思わず眉をひそめた。