第70章 「お兄さん」と呼んでくれなかった

部屋の中で、佐藤和音は机に向かって、宿題をしているようだった。

佐藤和音が顔を上げると、佐藤正志と視線が合った。

ノックの音を聞いて、和音は使用人が温かい牛乳を持ってきたのだと思った。

ノックしたのが佐藤正志だとは予想していなかった。

和音は視線を外し、傍らにあった宿題を取り出して、今書いていたレポートの上に被せた。

正志は和音の前まで歩み寄り、しゃがみ込んで、座っている和音と目線を合わせた。

「和音」

正志が呼びかけた。

和音は振り向いて彼を一瞥したが、本能的に体を後ろに引き、正志との距離を少し広げた。

和音はまだ他人との距離が近すぎるのに慣れていなかった。家族の女性たちはまだましだが、男性とはやはり馴染めなかった。

和音のこの本能的な反応に、正志は思わず眉をひそめた。

目の前の妹を見つめると、幼い顔立ちで、目には充血の跡があり、最近よく眠れていないのかもしれなかった。

正志は声を柔らかくして言った:

「プレゼントありがとう。兄さんとても気に入ったよ。兄さんの誕生日を覚えていてくれてありがとう」

事件が起きてから今まで、彼は和音に対して終始厳しい表情を見せ、話し方も会社の社員に対するようなものだった。

和音はただ正志を見つめていた。

「兄さんのことを怒ってるの?兄さんが怒鳴ったから?」

和音は返事をしなかったので、正志は和音が本当に自分のことを怒っているのだと思った。

正志はゆっくりと和音に語りかけた:「和音、兄さんは君が家族を傷つけるような人間だとは信じたくないし、直樹が嘘をついて君を陥れるような人間だとも信じたくない。兄さんや両親にとって一番辛いのは、君たち二人とも私たちの最愛の家族で、どちらかを選ぶことも、どちらかを見捨てることもできないということなんだ」

佐藤家の者は、他人に対しては決して手加減をしたことがなかった。

しかし、家族間の対立となると、佐藤家の者たちは手の打ちようがなかった。

温厚な性格の岡本治美はもちろん、ビジネス界で手腕を振るう佐藤賢治と正志の父子でさえ、家族間の極端な対立を冷静に処理することができなかった。

正志にとって、一人は実の弟で、もう一人は実の妹だった。

彼は和音より13歳年上で、直樹より11歳年上だった。

言わば、彼は二人の成長を見守ってきたのだ。