夜、眠りについた馬場絵里菜は、やけにリアルな夢を見ていた。
夢の中には、人も物も、いかなる情景も存在しない。見えるのはただ、文字ばかり。それは古い伝説のようでもあり、あるいは失われた道場の教えのようでもあった。
突如、脳裏にはっきりと声が響いた。「上古、いにしえの大陸にて捨仙門という道場あり。開祖たる玉川仙人(ぎょくかわしんにん)が生涯を賭した絶技を、天命に超える者を選び、血脈に融かし込む。絶世の資質を持つ者が現れるを待ち、万物はその者に定められん」
その声は荘厳で、どこまでも遠く、それでいて澄み切った響きを持ち、まるで異次元からの古き呼び声のようだった。夢の中にいた絵里菜は、はっと目を覚ました。すると、仰向けになった自分のすぐ上に、びっしりと文字が浮かんでいるではないか。
天命に超える?
絵里菜の頭に最初に浮かんだのは、その言葉だった。夢の中で、あの古えの声が「天命に超える者を選び、血脈に融かし込む」と言ったのを、はっきりと聞き、確かに覚えていた。
自分が不可解にも26歳から14歳へと生まれ変わったこと——もしかして、これが所謂「天命に超える」なのだろうか?
改めて目の前の金色に輝く文字に目を向ける。これは古流道場、捨仙門の秘伝書で、開祖・玉川仙人の十二の心法が記されている。しかし、絵里菜がその内容を詳しく読み取る間もなく、何千何万もの金色の文字がまるで命を得たかのように躍りだした。そして、絵里菜が呆然とする間に、なんと一斉に彼女の脳内へと飛び込んできたのだ。
突如流れ込んできた膨大な情報量に、絵里菜の脳はまるで焼き尽くすように熱く、ひどく苦しくなった。その状態は2分も続かなかっただろうか、やがてエネルギーは徐々に弱まり、ついには消え去った。
そして今、絵里菜は十二の心法を、まるでとっくに脳に刻み込まれていたかのように、すらすらと口にすることができるようになっていた。
絵里菜はすぐにベッドから身を起こし、ベッドサイドにある「まる子ちゃん」の目覚まし時計に視線を向けた。すっと手を上げると、ベッドサイドテーブルの上にあったはずの時計が、ふわりと絵里菜の手の中に飛んできたのだ。
しっかりと受け止める。これは口訣の中で最も基本的な「物體操作」——物を操る力だ。絵里菜は驚きと喜びで胸がいっぱいになった。生まれ変わりだけでも天が与えてくれた最大の恩恵だと思っていたのに、まさかこんなギフトまでついてくるなんて。捨仙門の術まで身につけてしまうとは、まさに予想外のサプライズだ。
転生だけでも信じがたいことだったのに、今度は十二の心法まで習得してしまった。もし自分の身に起こったことでなければ、絵里菜は一生、この世にこんなことがあるなんて信じなかっただろう。
朝、目が覚めるともう6時だった。絵里菜は手早く顔を洗い、久しぶりの制服を着て、通学用リュックを背負って家を出た。
この時間、母と兄はもう自宅の朝食屋台で忙しく働いている。絵里菜は毎朝、店で朝食を食べてから直接学校へ行くのが日課だ。
「絵里菜!」
道を歩いていると、後ろから突然名前を呼ばれた。
ぴたりと足を止め、絵里菜が振り返ると、同じ第二中学の制服を着た、自分と同じくらいの年の女の子が小走りで追いついてくるところだった。
高橋桃、絵里菜のクラスメイトであり、親友でもある。二人は幼い頃からの幼馴染で、幼稚園から高校までずっと同じ学校に通っていた。大学は目指す道が違ったため別々の学校を受験したが、それでも一番の友達であることに変わりはなかった。
前世での桃は、お金持ちの二代目と結婚し、初産でいきなり双子の男の子を産んだ。おかげで嫁ぎ先での立場も安泰で、かなり裕福な暮らしを送っていた。
「もう病気、治ったの?学校行くの? もう少し家で休まなくて大丈夫?」桃は駆け寄ってきて心配そうに尋ねた。
突然、若い頃の桃の姿を目の当たりにして、絵里菜は思わず一瞬呆然としてしまった。それからようやく口を開いた。「うん、もう大丈夫。何日も学校休んじゃったし、これ以上休むと授業についていけなくなっちゃうから」
桃は絵里菜の顔色が確かによくなっているのを見て、ようやく安心したようだった。それから溜め息をついて言った。「もう鈴木由美(すずき ゆうみ)たちには関わらない方がいいよ。あそこの家はお金持ちで力もあるんだから。今回は池に突き落とされただけですんだけど、次にもっとひどいことされたらどうするの?」
絵里菜はそれを聞いてはっとした。自分が熱を出したのは水に落ちたせいだという記憶はある。だが、その件に鈴木由美が関係していたなんて、どうして覚えていないのだろう?
第二中学校は東京でも指折りの高校で、生徒は大きく二種類に分かれていた。一つは、家が裕福で権力を持つ家庭の子女。もう一つは、成績優秀で、実力で奨学金を得ている生徒たち。
絵里菜と桃は、明らかに後者だった。そうでなければ、普通の家庭の経済力では、第二中学の高い学費を到底負担することなどできない。
しかし、奨学金を得られる生徒は少数派だ。思春期の少女たちは徒党を組みたがるもので、足立区の下町で暮らす絵里菜と桃のような存在は、自然とクラスメイトから孤立させられたり、いじめの対象になったりしがちだった。
ただ、鈴木由美に学校の池へ突き落とされたという記憶が、絵里菜には全くないのだ。前の人生では、そんな出来事は起こらなかったはずだ。
もしかして…人生をやり直したことで、多くの物事の軌道も、以前とは違ってきてしまったのかしら…?
「絵里菜、聞いてる?」
「あ、うん。わかってる」絵里菜は我に返り、慌てて頷いた。
実家の朝食屋は、通りの角という好立地にあったが、そのせいか、近隣には他にも朝食を提供する店がいくつかあった。
「登美子さーん、私と絵里菜、外の席に座るねー」高橋桃が、店の中で忙しそうにしている細田登美子に向かって声をかけた。
「はいよー、ちょっと待っててね、すぐ行くから!」登美子は、手を動かしながら応えた。
朝食屋の毎日の繁盛ぶりは、大体決まっている。客層もほとんどが常連客だ。登美子の揚げパンは評判が良く、それを目当てに朝食を食べに来る客が多かった。
「はい、二人とも、ご注文は?」
そこへ、馬場輝がテーブルにやって来て、二人を見てにこやかに尋ねた。
輝の姿を見るなり、桃の目がぱっと輝いた。だが、彼女が口を開くより早く、絵里菜が割り込んだ。「牛乳と揚げパン、それから煮卵2つ。お兄さん、急いでね、遅刻しちゃうから」
「へい、お待ち!」輝は眉をくいっと上げると、店の中へと戻っていった。
桃は何か言いたげに口を開きかけたが、結局、言葉にはならなかった。ただ、その目は輝の後ろ姿を追って、店の中まで見送っていた。
「もういいでしょ。目ん玉、飛び出ちゃいそうだよ」絵里菜は、可笑しそうに桃を見て言った。
桃はぷっと口をとがらせ、少し呆れたように言った。「登美子さんって、ほんとすごいよねぇ。絵里菜も輝兄さんも、すっごく綺麗なんだもん」
絵里菜は色白で、やや丸みを帯びた卵形の顔立ちをしている。目鼻立ちが特に精緻というわけではないが、典型的な美少女と言えるだろう。
一方の輝は、くっきりとした眉と大きな目、そしてにっと笑うと見える真っ白な歯が印象的で、まるで小さな太陽のようだ。彼に魅力を感じない女の子は、そう多くはないだろう。
「まあでも、登美子さん自身も綺麗だしね。二人とも、もともと遺伝子が良いのよ」桃はさらに続けた。
その言葉に間違いはなかった。細田登美子は17歳で輝を、21歳で絵里菜を産んだ。現在35歳になるが、そんな大きな子供が二人もいるとは、とても信じがたいほど若々しい。
35歳の女性の仕事が、キャバクラのホステスだと聞けば、笑う人もいるかもしれない。
しかし、細田登美子は違った。彼女は生まれつき美しく、35歳になった今でも肌には張りがあり、スタイルも抜群だ。若い娘たちにはない、熟した色香すら漂わせていた。