第36章:正気の沙汰ではない

「チン!」

エレベーターのドアが開くと、井上裕人は馬場絵里菜に話す機会を与えず、すぐにエレベーターに乗り込んだ。絵里菜がエレベーターのドアを掴んで議論しようとした時、後ろから追いかけてきた細田登美子に引き止められた。

エレベーターのドアがゆっくりと閉まる中、絵里菜は中にいる人を不満げに睨みつけた。しかし井上裕人は怒る様子もなく、むしろ挑発的な笑みを浮かべて絵里菜を見つめ返した。

「絵里菜、もういいわ。井上さんには私たちは逆らえないの……」細田登美子はため息をつきながら、静かに絵里菜に言った。

彼女たち母子家庭が井上裕人に逆らえないのはもちろん、この東京で誰が彼に逆らう勇気があるというのだろうか?

馬場絵里菜は閉じたエレベーターのドアを見つめながら、心の中で怒りが込み上げてきた。彼女が生まれ変わって最初にやりたかったことは母をここから連れ出すことだったのに、すべてが自分の思い通りに進んでいたはずが、突然この予想外の人物が現れた。しかも相手は彼女たちには手が出せない、身分も地位も及ばない井上財閥の唯一の後継者、井上裕人だった!

「お母さん、本当に総支配人として残るの?」絵里菜は我に返り、細田登美子に尋ねた。

この出来事は突然で、絵里菜にはまだ現実感がなかった。このような大きなパラダイスクラブの総支配人の座が、井上裕人によって母親に押し付けられたなんて、道端で適当に人を選んだのと何が違うというのか?

これはもはやお金持ちのわがままというレベルではない。まさに正気の沙汰ではない!

「井上さんが直接おっしゃったことだから、誰も冗談にはできないわ。私は経営者の経験はないけれど、一歩一歩進むしかないわね。」細田登美子は無理に笑顔を作って続けた。「お母さんは分かってるわ。あなたがお酒を飲まないでほしいって思ってることを。安心して、支配人になったら頻繁には飲まないから。」

母の言葉を聞いて、絵里菜はようやく頷いた。母が毎日お酒を飲まなくなり、肝臓がんの運命を避けられるなら、何でも受け入れられる。

一方、エレベーターのドアが閉まった瞬間、井上裕人の顔から笑みが完全に消え去った。

電話が鳴り、井上裕人が受けると、相原佑也の興奮した声が聞こえてきた。「やあ井上さん、どうでした?彼女に会えましたか?」

「いいえ!」井上裕人は無表情で冷たく答えた。