心春は目の前の光景を呆然と見つめていた。
今の卿介は、全身から色気が漂い、目が離せないほどの魅力を放っていた。
まるで彼女の視線を感じ取ったかのように、卿介がふと顔を上げた。艶やかな切れ長の瞳が、静かに彼女の目を捉える。
彼はゆっくりと彼女の前まで歩み寄り、両手を彼女の背後のローボードに突いて身を寄せた。濡れた髪の先から、ぽたり、と雫が落ちる。彼女の頬に、それが静かに触れた。
「水、垂れちゃったね」そう囁いた彼の唇が、そのまま彼女の頬に触れる。零れた雫を舐め取るように、やさしく吸い寄せた。
心春はようやく我に返り、卿介を押しのけようとした瞬間、彼の声が耳元で響いた。「お帰りなさい、お姉さん!」
何気ない一言だったが、心春は突然、鼻の奥がツンとする感覚に襲われた。
どれほど長い間、誰からもこの言葉を掛けられていなかったことだろう。
以前の冷たく静かな家とは違い、今では、この家に、一人増えたのだ!
「うん、ただいま」彼女は長く息を吐き出し、微笑んで答えた。
「お姉さんが帰ってきたなら、髪を拭いてくれないかな。昔は、お姉さんがいつも髪を拭いてくれたよね」彼は耳元で囁き続けた。
「いいわよ」彼女は応じ、彼の手からタオルを受け取り、彼をソファーに連れて行って座らせた。髪を拭こうとした瞬間、彼は突然両手で彼女の腰を掴み、直接彼の太腿の上に座らせた。
「立ったまま拭けばいいのに!」心春は慌てて言った。この姿勢は近すぎる、姉弟というより恋人同士のようだった。
「お姉さんにこうやって拭いてもらうのが好きなんだ」彼は言った。
彼の膝の上に座っているため、今は彼女の方が高い位置にいた。彼は顎を少し上げ、その完璧な顔立ちが彼女の目の前に広がっていた。
髪の水滴が彼の頬を伝い、肩や鎖骨に落ち...そして引き締まった胸板、想像を掻き立てる腹部へと流れていく...
これ以上見ちゃダメ!
心春は心の中で自分に言い聞かせ、急いでタオルを卿介の頭に被せ、髪を拭き始めた。
髪が半乾きになるまで拭いてから、彼女は手のタオルを彼に返した。
「はい、これでドライヤーで乾かせばすぐ乾くわ。待って、ドライヤーを取ってくる」彼女はそう言って、自分の部屋に入り、ドライヤーを探し出した。
しかし、リビングに戻ってきた時、卿介が写真立てを手に取り、その中の写真を見つめているのに気付いた。
それは...彼女がオフィスから持ち帰った私物だった。
その小さな写真立ての中には、彼女と流真の2ショット写真が入っていた。
「この男は、お姉さんが愛していた人なのかな?」卿介の低い声が響き、その切れ長の瞳がゆっくりと上がり、心春を見つめた。
彼女は思わず体を震わせ、「あのね、昔、好みが悪くて付き合った男だったの。もう別れちゃったのよ!しばらくたったら、ここにある彼に関するものは全部、出して捨てるわ!」と、はっきりと告げた。
彼の目の中の冷たさが消え、唇が弧を描いて上がった。「僕もお姉さんの目は良くないと思う。こんなやつを選ぶなんて。じゃあ、今は彼のことを愛してないの?」
「もちろん愛してないわ。そんな気力があるなら、あなたを愛した方がましよ!」心春は言った。
彼女は以前卿介に与えられなかったものを、全て埋め合わせたかった。少なくとも、彼女が生きている間は、彼にたくさんのものを与えたいと思った。
「僕を...愛してくれる?」かすれた声には、どこか不安が混じっていた。墨のように深い切れ長の瞳が、じっと彼女を見つめていた。
「もちろんよ」彼の目には何か魔力があるかのように、彼女は思わず両手で彼の顔を包み、じっくりと見つめた。
彼の容姿は、子供の頃の可愛らしさから、今では大人の男性の美しさへと変わったが、五官には依然として子供の頃の面影が残っていた。
「卿介、私はあなたを愛するわ。たくさんの愛を与える。私にとって、あなたは大切な弟で、家族なの!」彼女は呟いた。
彼のまつ毛が少し震えた。弟?
でも彼女は知っているのだろうか?あの夜、彼女と一つになった瞬間から、もう姉として見ていないということを!
「それに私は今仕事も辞めたから、時間もたくさんあるし、あなたともっと一緒にいられる。何か欲しいものがあったら、全部買ってあげるわ。お金のことは心配しないで、お姉さんはお金を持ってるから、あなたの欲しいものは、私の出来る限り全部あげる」彼女は続けた。
彼は薄く唇を開いた。「じゃあ、僕がお姉さんが欲しいと言ったら、それもくれる?」
彼女は一瞬固まり、彼の深い眼差しに出会うと、すぐに優しく微笑んだ。「もちろんよ、私はあなたのお姉さんだもの」ただし、どんなに一緒にいても、彼女に残された時間は1年だけだった。
でも彼女は自分の死後のことも手配するつもりだった。彼女が死んでも、彼が良い生活を送れるように!
心春はドライヤーを手に取り、卿介の髪を乾かし始めた。
卿介は目を伏せ、視線を心春と流真の2ショット写真が入った写真立てに落とした。写真の中の心春は、笑顔が眩しく、流真との視線には愛情が溢れていた。本当に……目障りだった!
————
夕食は心春が作った。三品のおかずと一つのスープという簡単なもので、少し質素に見えた。
「これからは何が食べたいか言ってね。外食でもいいし、高級なレストランでも構わない」心春は言った。
卿介は軽く頷き、無表情で食事を始めた。
「まずいかしら?」心春は思わず尋ねた。
「いいえ、お姉さんの作った料理が好きだよ」卿介は答えた。
心春は笑顔を見せた。自分の料理の腕前は普通だけど、卿介が褒めてくれて嬉しかった。
「そうそう、おじいさんは?今どこにいるの?それに、あなたはどこに住んでいたの?仕事はどこでしてるの?」
心春は立て続けに質問した。
結局、彼のことについて、彼女はあまりにも知らなさすぎた。もし彼が戻って来なかったら、彼女は彼をどこで探せばいいのかさえ分からなかっただろう。
「話したくないんだ。お姉さん、怒る?」卿介は逆に尋ねた。
心春は少し戸惑ったが、すぐに「話したくないなら、いいよ」と言った。彼が自分のことを話したくないなら、彼女は聞かないことにした。
「でも電話番号は教えてね。連絡が取れるように」心春は言った。
「うん」卿介は応じた。
「それに、私がなぜ一人暮らしをしているのか、聞かなかったわね」心春は続けた。まるで彼が彼女の状況に全く興味がないかのようだった。
卿介の目が微かに揺れた。彼女の状況については、彼は全て知っていた。
「実は、あなたのお父さんが亡くなった後、私の母は数年後に再婚したの」心春は呟くように言った。
ただし、結婚する前に、母は別のおじさんと同棲していた。そして彼女は、そのことがきっかけで別の少年と知り合った...卿介と同じ年頃の少年を。
でも、これらのことは卿介に話す必要はなかった。
心春は一旦言葉を切り、続けた。「その後、母と継父は交通事故で亡くなったの。二人の間に子供が一人いて、私の弟なんだけど、田中悠仁って言うの。今は田中家の親戚に育てられているわ。そうだ、悠仁の写真を見る?」
彼女は言いながら、スマートフォンのアルバムを開き、一枚の写真を探し出した。
写真に写っていたのは、まだあどけなさの残る少年だった。斜め横からのアングルで、整った顔立ちに色白の肌。彼は桃の花が咲き誇る木の下に立っていて、花びらが春風に舞いながら、ひらひらと降り注いでいた。まるで「人面桃花、相映ず」とでも言いたくなるような光景。とりわけ印象に残ったのは、彼のその「桃花のような瞳」だった。
「きれいでしょう」心春は嬉しそうに笑った。まるで何かを自慢しているかのように。
卿介は彼女の顔の笑顔を見上げ、突然、この笑顔も目障りに感じた。
食事が終わり、心春はテーブルを片付けながら、卿介に「卿介、ドライヤーを私の部屋の机の引き出しに戻してくれる?」と言った。
卿介は返事をして、ドライヤーを持って心春の寝室に向かった。
突然、ちょうど食器を流し台に置いて洗おうとしていた彼女は、何かを思い出したかのように、ビクッとした!
まずい、病院のがん診断書が部屋の引き出しに入っている。
もし卿介が引き出しを開けて見たら...
そう思った瞬間、心春はほとんど飛ぶように台所から自分の寝室へと駆け込んだ。