離婚協議書?
この簡単な四文字が、冬真の逆鱗に触れた。
彼は思っていたのだ。星澄はこれまでと同じように、少し甘えた声で話しかけてきて、彼のために美味しい料理を作り、そうすれば、どんな不愉快も自然と過ぎ去るものだと。
しかし、今回はそうではなかった。
それどころか、最初から離婚の話を切り出してきたことに、彼は不快感を覚えた。
彼の声はひどく低かった。「夏目星澄、俺は忙しい」
つまり、それ以上くだらないことで手を煩わせるな、ということだ。
だが、星澄の態度は揺るがなかった。まるで、その裏に隠された意図など、最初から聞こえていないかのように。
「分かってる。だから、離婚協議書はもう用意できてる?いつでもサインできるよ。あんたの時間は取らないから」
冬真の目に怒りの色が浮かんだ。「本気で離婚するつもりなのか?最後にもう一度聞くぞ」
星澄はほとんど躊躇することなく答えた。「はい」
「バン」という音と共に、電話は切れた。
星澄は呆然とした。これは...怒っているの?
でも、どうして?
ずっと離婚したがっていたのは彼のはずなのに。
今、彼の初恋の人が戻ってきたのだから、彼女が思いやりを持って離婚を申し出て、その位置を譲るのを喜ぶべきではないの?
なのになぜ怒るの?
冬真という男は本当に理解できない。
星澄はもう一度電話をかけて、離婚協議書がいつ準備できるのか確認しようと思った。
彼女も心の準備をしたかったし、ずっと家で彼からの連絡を待っているわけにもいかない。
しかし電話をかける前に、別の電話が入ってきた。
契約している芸能事務所の社長、芦原雅子からだった。
二人はいつもLINEでやり取りをしていた。
さっき電話をしていた時にLINEを見ていなかったので、相手が焦って直接電話をかけてきたのだ。
「星澄さん、今お忙しいですか?ちょっと急ぎのお願いがあるんですが」
「忙しくありません。どうぞ」
「実は、最近アイドルオーディション番組で練習生を募集していて、うちの事務所に新しく入った男の子たちが挑戦したいと言っているんです。でも歌の面で少し物足りないので、指導をお願いできないかと」
今、すべての芸能事務所が人脈と実力を競い合って、所属タレントを訓練する人材を探している。
有名な人や実力のある人はすでに他所に引き抜かれていた。
雅子に頼むしかなかったのは、他にあてがなかったからだ。何しろ、彼女はかつて三年連続でネット音楽ランキングのトップを独占していた実力者なのだから
もともと彼女と契約したのは、その才能を見込んでデビューさせるつもりだった。
後に何らかの理由で、裏方として作詞作曲家になることになった。
それでも、彼女が作る曲は業界で高い評価を得ていた。
多くの有名歌手が直接彼女に楽曲を依頼していた。
彼女があまりにも控えめな性格でなければ、とっくに芸能界で大きな名声を得ていただろう。
しかし今でも、彼女の素顔を知る人は数えるほどしかいない。
星澄は以前、ネット上で一時期人気を博し、多くの芸能事務所から契約のオファーを受けていた。
彼女もデビューして、自分の音楽の夢を叶えたいと思っていた。
しかし冬真が不慮の事故に遭い、生死の境をさまよっていた時、彼女は自分の夢を諦めた。
彼の側で献身的に看病することを選んだのだ。
彼が目覚めた後になってようやく、音楽の仕事を再開したが、もう自分では歌わず、裏方として作詞作曲家になった。
雅子は彼女が最も困難な時期に助けてくれた。今回彼女が直接頼んできたのだから、断るわけにはいかなかった。「もちろん大丈夫です。いつから始めますか?」
どうせ冬真と離婚するのだから、自分のことを考える時期でもある。
これを彼女のキャリア再開の契機にしよう。
雅子は安堵の息をついた。「それは本当に助かります。可能であれば、明日から始めたいのですが」
彼女は星澄がこんなにすぐに承諾するとは思っていなかった。夫の性格があまり良くなく、彼女が外で仕事をすることを好まないことを知っていたからだ。
すぐに承諾してくれたことは、実は意外だった。
星澄は頷いた。「分かりました。では明日から。午前9時に会社に伺います。詳細は直接お話しましょう」
瑶子が帰宅した時、彼女は雅子を手伝うことになった件を話した。
瑶子は歓声を上げた。「それは素晴らしいわ、星澄!やっと前向きになって、自分のことを考えられるようになったのね。前から言ってたでしょう?男のために自分のキャリアを諦めるべきじゃないって」
「お金に困ってないのは分かるけど、精神的な満足は物質的なもので得られるものじゃないわ。それに、あなたはそんなに音楽が好きで才能もあるのに、歌わせないなんてもったいないわよ」
星澄は彼女の隣に座り、穏やかに微笑んだ。「うん、その通りよ。実は私も歌手だった頃が懐かしいの」
以前、最も辛く苦しかった日々を、歌を作ることで乗り越えてきた。
それは、彼女にとって心の支えでもあった。懐かしくないわけがない。
「本当に、星澄。トレーニングの仕事が終わったら、事務所と相談して、再デビューの話もしてみたら?私が最初のファンになるわ!」
「その時になったら考えるよ」
星澄が今考えているのは、何よりもまず冬真との離婚をきちんと終わらせること。それが片付かない限り、きっと仕事に本気で向き合うことなんてできないと思っていた。