薬を差し出した瞬間、星澄はもう後悔していた。けれど、長年の癖というのは恐ろしいもので、冬真の世話を焼くのがすっかり習慣になっていた。
この癖は、できるだけ早く断ち切らなければ――星澄はそう思いながら、手を強く握られている痛みに眉をしかめた。
とっさに手を引こうとしながら、冷たく言い放つ。「飲みたくないなら、別にいいけど」
彼女の目に、以前のような焦りや心配はまったくなかった。それに気づいた冬真は、苛立ちを隠しきれず、乱暴に彼女の手を放した。
テーブルの上の薬を手に取り、水も飲まずに口に入れた。
星澄もその胃薬を飲んだことがあり、効果は良いが少し苦いものだった。冬真がそのまま飲んで大丈夫なのだろうか?
まあいい、彼が苦いと感じようと感じまいと、もう自分には関係ない。
これからは彼の本命の人が彼の面倒を見るのだから。
彼女が心配する必要など全くない。
その時、希真が突然冬真の側に寄り、小声で言った。「社長、ご注文のランチが届きましたが、今お召し上がりになりますか?」
冬真は頷いて、「持ってきてくれ、今食べる」
星澄は眉をひそめた。「霧島社長、話を終わらせてから食事をしても遅くないのでは?」
離婚の件が解決しないと落ち着かない。
しかし冬真は気にする様子もなく言った。「胃の調子が悪いから、食事をしなければならない。夏目さんはそれくらいの時間も待てないのですか?」
星澄は一度だけ息をのみ、そして静かに答えた。「いいわ、食べて。待ってるから」
星澄がそう言い終えた直後、冬真が注文していた昼食が運ばれてきた。
届けられたのは、しっかりと風呂敷に包まれた二つの大きな仕出し弁当。
星澄は冬真の食事量がいつからこんなに増えたのか不思議に思った。
包みの中からは、料理が一品ずつ丁寧にテーブルの上へ並べられていく。
よく見ると、それは和食の仕出し弁当だった。
この昼食はなかなか豪華だ。
知らず知らずのうちに、彼女もお腹が空いてきた。
星澄は梅子の方を向いて言った。「先輩、私たちも食事に行きましょう」
梅子は頷いた。彼女は元々空腹ではなかったが、冬真のテーブルの上の料理を見て、食欲をそそられた。
二人が立ち去ろうとした時、冬真が突然低い声で言った。「大谷、神谷弁護士を社員食堂に案内してくれ。わざわざ来ていただいたのに、お腹を空かせてはいけない」
希真は梅子に対してお辞儀をして、「神谷弁護士、こちらへどうぞ」
梅子は隣の星澄を見て、「星澄、私、行ってもいい?」
星澄は冬真が恐らく彼女と二人きりで話したいのだと察し、頷いた。「行ってきて、先輩。ここの社員食堂は美味しいわ」
梅子はそれを聞いて、希真について行った。
広いオフィスには、二人きり。一気に静けさが増し、少し空間の広さを感じさせた。
冬真は立ち上がって仕出し弁当の前に進み、星澄に箸を渡した。「君の好きな店のものだ。食べてくれ」
星澄は少し驚いた。どうして彼が、自分の好みに合った店を知っているのか。
不思議に思いながらも、彼女は静かに箸を受け取った。「ありがとう」
煮物、焼き魚、炊き合わせ。一口食べてみると、確かに――あの味だった。気づかないうちに半分以上食べていた。
冬真を見ると、彼は少ししか食べていなかった。
明らかに彼の好みではないようだ。
もしかして彼女のために注文したのだろうか?
でも、なぜだろう?もう離婚することになっているのに、突然こんな態度を取るのは何のつもりだろう?
星澄の心は不思議と落ち着かなかった。
食事がほぼ終わると、彼女は再び離婚の話を切り出した。「食事も済んだことだし、これで離婚の話ができるのか?」
冬真の表情が明らかに暗くなった。何か言おうとした時、突然スマホが鳴った。
着信を確認すると、すぐに電話に出た。「お婆様、はい、分かりました。すぐに彼女を連れて帰ります」
これを聞いて、星澄の心がギュッと締め付けられた。
冬真は誰を連れて帰るつもりなのだろう。
あの本命の人、梁川千瑠のことだろうか?
冬真は電話を切り、星澄の方を見た。「お婆様が、重要な話があるから私たちに会いたいと言っている俺は行くって答えた。君が行きたくないなら、無理にとは言わない」
星澄は彼のお爺様とお婆様には今でも特別な感情を持っていた。
結婚してから今日まで、ずっと変わらず優しくしてくれた人たちだったから。
もし今、彼女が冬真と離婚すると言い出したら、二人にとってはあまりにも大きなショックになるだろう。
「行くわ。でも私たちの離婚のことは、今は彼らに言わないで」
「好きにしろ」
冬真との離婚の件は一時保留にするしかないようだ。
星澄は梅子に一言挨拶をして、冬真について霧島家の本邸へ向かった。
家に入るとすぐ、白髪の霧島お婆様が杖をついて近づいてきた。彼女は星澄を抱きしめた。「お婆様の大切な孫嫁、やっと来てくれたのね。お婆様はあなたに会いたくて仕方なかったわ」
星澄は以前、毎週時間を作って霧島お爺様とお婆様を訪ねていた。
しかし最近は冬真との離婚の話し合いや、雅子の依頼で指導の仕事も引き受けたため、事前に霧島お婆様に電話をして、用事があって毎週の訪問ができないと伝えていた。
霧島お婆様は口では大丈夫だと言ったものの、声には寂しさが滲んでいた。
しかし星澄にもどうすることもできなかった。
冬真と本当に離婚してしまえば、もう本邸に来て彼らを訪ねる資格もなくなるのだから...
星澄も霧島お婆様を抱きしめ返し、名残惜しそうに言った。「お婆様、私もお会いしたかったです」
冬真はドアの前に立ったまま、祖母と星澄が抱き合う姿を、どこか温かく、そして少し可笑しそうに眺めていた。
彼こそがお婆様の実の孫なのに、一目も向けられない。
星澄は後ろで誰かが自分を妬んでいることに気付かず、笑顔で霧島お婆様を見た。「そうそう、お婆様、何か重要なお話があって、私たちに会いたいとおっしゃったんですよね?」
霧島お婆様は星澄の手を取り、同時に玄関に立つ冬真を一瞥して言った。「さあ、星澄、お婆様と一緒に中へ入って話しましょう」