小山千恵子はバッグをしっかりと握り締め、慌てて別荘に駆け込み、最上階の展示室へと走っていった。
それは別荘で唯一防火扉のある部屋だった。
そこに逃げ込めば、時間を稼げる!
しかし病み上がりの千恵子には、後ろの男を振り切るだけの体力はなく、あと少しで袖を掴まれそうになった!
幸い、彼女は道をよく知っていた。瞬く間に、展示室の扉が目の前に現れた。
扉に入る瞬間、後ろを追いかけてきた暴漢は血走った目で、ナイフを千恵子に向かって投げつけた!
細く白い腕に一瞬切り傷が走り、ナイフは床にカチャンと音を立てて落ちた。
「うっ——」
千恵子は痛みで目の前が暗くなりながらも、全力で部屋に滑り込んだ。
細い腰が合金製の扉にぶつかり、腕を押さえながら壁に沿って崩れ落ちた。
入り口では、暴漢たちがバールに持ち替えて、狂ったように扉を叩き続けていた。
千恵子は大きな音に怯え、顔面蒼白で全身を震わせていた。
腕の傷口から真っ赤な血が溢れ出し、すぐに千恵子の袖を濡らした。
彼女の純白のドレスに、にじんだ血が目を刺すように赤かった。
視界が徐々にぼやけてきた……
「このアマ、待ってろよ!」入り口からの罵声が耳をつんざいた。
千恵子は震える手で携帯を取り出し、浅野武樹からのLINE着信が目に入った。
浅野武樹:「今どこ?」
彼女は本能的に、よく知っている番号に電話をかけた。
数回の呼び出し音の後、すぐに電話が繋がった。
「千恵子、お前は……」
怒りを含んだ男の言葉を最後まで聞く余裕はなかった。傷口からの出血が止まらず、痛みで目の前が暗くなり、耳鳴りがし始めた。
「武樹さん、郊外のスタジオ、助けて……」
電話は切れていなかったが、もう声は出なかった。
浅野武樹は真っ黒な瞳が細くなり、低い声でうなっていた。「千恵子、千恵子!」
しかし、もう返事はなかった。
携帯の雑音が、すぐにツーツーという切断音に変わった。
浅野武樹は椅子から勢いよく立ち上がった。
高く積み上げられた契約書が、バラバラと床に散らばった。
寺田通は物音を聞いて、すぐにドアをノックした。
「社長、何かご用でしょうか?」
返事を待つ間もなく、社長室のドアが勢いよく開き、寺田通は驚いた。
さらに彼を驚かせたのは、浅野武樹の目に浮かぶかすかな動揺だった。
浅野武樹はスーツの上着を着ながら歩き、疾風のようにエレベーターに駆け込んだ。
「人を連れて、郊外のスタジオへ行け」
寺田通は即座に意を悟り、素早く手配を整えた。
奥様が危険な状況にいるに違いない。
寺田通は地下駐車場に着いたが、浅野武樹が待ちきれなかった。
黒いスポーツカーが矢のように地下駐車場を飛び出し、視界から消えていくのが見えただけだった。
寺田通は油断せず、すぐにボディーガードを連れて出発した。
郊外のスタジオ。
千恵子は寒さを感じ、体を丸めて角に縮こまり、震えていた。
外では暴漢たちがまだドアを叩き続け、扉は歪み変形し、もうすぐ持ちこたえられなくなりそうだった。
千恵子の呼吸は次第に弱くなり、傷口を押さえていた手も力なく下がった。
彼女は茫然と展示室の壁に掛かっている写真を見つめていた。
写真の中の自分は、白いシャツにキャメルのワイドパンツを着て、コーヒーカップを持ち、リラックスした様子で明るく笑っていた。
これはスタジオのオープン日に、浅野武樹が撮った写真だった。
あの頃の浅野武樹は、彼女に向かって、いつも優しい笑顔を見せていた。
「千恵子ちゃん、無理するなよ」と言っていた。
今や彼女は浅野武樹にとって、履き古した靴のように捨てられる存在となっていた。
バンという大きな音とともに、展示室の扉が破られた!
「このアマを生かしておけねえ、どこだ?」
「血の跡がある、あそこだ!親分、角にいるぞ!」
千恵子は諦めて目を閉じたが、予想していた暴行は来なかった。
複雑な足音の中、彼女はあの馴染みの声を聞き分けた。
千恵子は最後の力を振り絞って瞼を開け、黒い高い姿を目に見えた。
浅野武樹だった。
彼の黒いシャツは二つ目のボタンまで開いており、鋭い鎖骨と引き締まった胸筋のラインが見えていた。
袖を捲り上げ、布地が逞しい上腕の筋肉に張り付いていた。スラックスもぴったりと体にフィットし、長い脚は力強く見えた。
高級な生地のネクタイを右拳に巻きつけ、的確な打撃で、あっという間に暴漢たちを制圧した。
悲鳴を上げる者たちにも更に数発の拳が見舞われ、部屋は一瞬にして静まり返った。
いつも整然としていた髪型も今は乱れ、数本の髪が垂れ下がり、浅野武樹の表情をより凶暴に見せていた。
固い靴底で暴漢の片手を踏みつけ、コンクリートの床の上でこすりつけた。
馴染みの冷たい声が響いた。「話せ」
暴漢は顔面蒼白になり、体が震え、もはや言葉も出なかった。
浅野家の若旦那、浅野武樹の冷酷さは、帝都中の誰もが知っていた。
彼らはただこの女懲らしめてやれという命令を受けただけで、浅野武樹という大物を敵に回すつもりなど毛頭なかった!
階段の入り口で乱れた足音が響き、浅野武樹はもう時間を無駄にする気はなかった。
彼は立ち上がり、手首をもみほぐした。
「寺田、全員連れ出せ」
千恵子は全身の力が抜け、目を閉じて意識を失った。
浅野武樹は長い足で素早く近づき、体を屈めて彼女を腕の中に抱き寄せた。
彼女の肌に触れた瞬間、眉をひそめた。
なぜこんなに冷たいのか。
千恵子の顔色は青ざめていた。
浅野武樹が立ち上がると、突然鼻に生臭い匂いが届いた。
下を向くと、千恵子の腕からまだ血が流れていた。
浅野武樹の目が暗くなり、手際よくネクタイを抜き取って千恵子の腕を縛って血を止めた。
立ち上がってジャケットを脱ぎ、彼女を包み込んで大股で歩き出した。
寺田通は状況を見て、すぐに後を追った。
浅野武樹は足を止め、鋭い目で制圧された暴漢たちを見た。
「連れて帰って尋問しろ。彼女の傷は誰がやっつけたたのか」
腕の中の女は子供のように軽かった。浅野武樹の心は波立っていた。
いつからこんなに痩せたのか。
別荘の中庭で、寺田通は玄関を出たところで、また二、三歩戻ってきた。
「社長、外には……大勢の記者がいます」
記者?
浅野武樹は眉を引き上げ、腕の中の女性を見る目にも冷たさが満ちていた。
この場所は人里離れた場所にあり、知る人も少ない。
意図的に仕組まれたものでなければ、こんなに多くの記者が来るはずがない。
浅野武樹は無意識に力を入れ、腕の中の女性は痛みに眉をしかめた。
危険を自作自演して、記者を呼んで大々的に宣伝する。
確かに、腹黒い女の手口にぴったりだ。
寺田通は浅野武樹の顔色がころころ変わるのを見て、やむを得ず覚悟を決め、まず記者たちを解散させるよう提案した。
浅野武樹の唇に嘲るような冷たい笑みが漂った。
「必要ない。彼女の思い通りにさせてやろう。どんな手を使うか見てみよう」
寺田通は誰のことを指しているのか聞く勇気がなかった。
彼は覚悟を決め、深く息を吸い込んで、出口を出ると車のエンジンをかけた。
記者たちの騒音とフラッシュを無視して、浅野武樹と気を失った千恵子を乗せて出発した。
車は第一病院に向かって走り、浅野武樹はますます強くなる生臭い血の匂いを感じていた。
彼は千恵子の手首のネクタイを締め直して止血を試みたが、全く効果がなかった。
数分もしないうちに、彼と千恵子の服は血でべたべたになっていた。
寺田通も異変に気付き、慎重に声をかけた。「社長、奥様は大丈夫でしょうか?」
浅野武樹はこめかみが激しく脈打ち、低く嗄れた声で言った。
「急げ!」
彼は確かに傷を確認したはずだった。それほど深刻な傷ではなかったのに、なぜ血が止まらないのか!