浅野武樹は足を止め、胸が痛くなった。
小山千恵子がこんな風に呼んでくれなくなってどれだけ経つだろう。
小山千恵子は恥ずかしがり屋で、付き合い始めてから結婚後まで、「旦那様」と呼ぶことはなかった。
二人きりの時以外は。
呼ぶ時は甘えるか許しを乞うかで、その呼び方には色っぽい響きが含まれていた。
浅野武樹は一瞬我を忘れ、強引に心を鬼にした。
目を閉じ、長い脚で浴室を出た。
田島さんと使用人たちが次々と入ってきて、浅野武樹は主寝室を出て、書斎に自分を閉じ込めた。
もう一切の心の揺らぎや迷いを許さなかった。
浅野武樹はその壁の前に立った。
母の悲惨な死の様子が、彼の目に映り続けた。
誰が清算すべきかわからないこの古い借りは、小山千恵子に返してもらうしかない。
タバコに火をつけ、浅野武樹は書斎のテラスを行ったり来たりし、心は落ち着かなかった。
ウイスキーを注ぎ、氷と共に一気に飲み干した。
最近、小山千恵子の一挙手一投足が彼の神経を揺さぶっていた。
彼女に関することに遭遇すると、本能が理性より先に動いてしまう。
浅野武樹はこの制御を失った感覚が嫌いだった。
コンコン。
書斎のドアが静かにノックされた。
「話せ」浅野武樹は眉間を揉んだ。
田島さんの声が入ってきた:「旦那様、奥様がお会いしたいとおっしゃっています」
書斎の中は暫く沈黙が続き、田島さんはもう返事はないと思った。
ちょうど立ち去ろうとした時、ドアの側から男の低い声が聞こえた。
「わかった」
主寝室の中。
小山千恵子はすでに使用人たちによってきれいに整えられ、いつもの寝間着を着て静かにベッドに横たわっていた。
でも彼女が会いたい人はそこにいなかった。
入浴による爽快感は消え、小山千恵子の腹の中の熱が再び燃え上がった。
「武樹さん...」
田島さんは主寝室のドアの前に立ち、入る勇気がなく、心配そうな顔をしていた。
黒いシルクのパジャマを着て歩いてくる浅野武樹を見て、田島さんは躊躇した後、口を開いた。
「旦那様、奥様の状態...薬を用意した方がよろしいでしょうか?」
薬を使うような状況は、上流社会ではもはや珍しくなかった。
そのため浅野家でも解毒剤を常備していた、いざという時のために。
浅野武樹の瞳の色が徐々に深くなり、墨のように細長い目が細められた。