小山千恵子は一歩一歩と着実に歩いてくる千葉隆弘を見て、軽くため息をついた。
これで良かった。修羅場どころか、超特大版の修羅場になってしまった。
千葉隆弘はポケットに手を入れたまま、のんびりと小山千恵子の横に立ち止まり、興味深そうに口を開いた。
「やあ、桜井さん、井上晶子、君たちもここにいたのか?何を話してたの?楽しそうだね」
浅野武樹は冷ややかな目で見つめながら黙っていた。彼は目の前の男を知っていた。
海都の千葉家の次男で、レーシングチームを経営しており、帝都で「物乞い」をしながら、投資とスポンサーを募っていた。
面白い男だ。帝都の名家のほとんどに人脈を使って接触していたが、唯一浅野家には近づかなかった。
井上晶子は愛する男が見知らぬ女の傍に立つのを見て、心の中で怒りが燃え上がった。
「隆弘、この女は素性を明かそうとしないわ。あなたどうして心を奪われたの?私の方が千倍も万倍も良いじゃない?」
千葉隆弘は気のない様子で返事をしながら、目は浅野武樹に向けられていた。
「へぇ?井上晶子、随分と自信があるんだね」
井上晶子は激怒したが、前に出る勇気もなく、千葉隆弘と小山千恵子が並んで立っているのを見て、やきもきするばかりだった。
「私はあなたの幼なじみで、シルバースターレーシングチームの株主よ。私たち井上家は、この野良猫なんかと比べものにならないわ!」
小山千恵子は少し落ち着きを取り戻し、千葉隆弘の演技を静かに見守るつもりだったが、思わず笑みがこぼれた。
井上晶子は突進してきた。「まだ笑うの?!」
千葉隆弘の表情が変わり、小山千恵子を後ろに庇った。「もういい加減にしろ。私にも我慢の限界がある」
騒動が終わりに近づき、小山千恵子も疲れを感じ始めていた。小声で言った。「隆弘、行きましょう」
千葉隆弘は振り返り、さりげなく小山千恵子の耳元の髪を耳にかけた。
小山千恵子は思わず身を引いたが、結局されるがままだった。
耳が本当に敏感で、軽く触れただけで、また耳先が赤くなってしまった。
小山千恵子が目を上げると、浅野武樹の冷たい視線と目が合った。彼は千葉隆弘の伸ばした手を鋭く見つめていた。
この女性を、浅野武樹は帝都で見たことがなかった。
千葉家の若造も、これまで気にも留めていなかった。