桜井美月は知らなかった。既婚者に執着するという話題が、かつて浅野遥の前では禁忌だったことを。
ただ、帝都での出来事は多く、また長い年月が過ぎ、多くの人々も忘れてしまっていた。
当時、藤田錦と浅野遥が結婚し、浅野武樹を産んだ後も、彼女は黒川家の黒川啓太に執着し続けた。その時、黒川啓太は既に小山雫の夫だった。
この件で浅野遥は帝都で面目を失い、そのため藤田錦が亡くなった時も、それは自業自得、因果応報だと考え、深い悲しみさえ感じなかった。
その後、浅野遥が再婚しなかったのも、もう女性を軽々しく信じる勇気がなかったからだ。
浅野遥は、うつむいて震える桜井美月を見て、突然心が和らいだ。
当初、他の誰かを探して、様々な理由をつけて、浅野武樹に小山千恵子を完全に忘れさせることもできた。
桜井美月を身代わりに選んだのも、彼女の浅野武樹への愛こそが、真実の、無条件の愛だと感じたからだ。
一人の女性が、愛のために尊厳を捨て、自傷行為や犯罪まで犯して刑務所に入る……
そんな愛こそ、信頼に値するのかもしれない。少なくとも浅野遥はそう考えていた。
桜井美月は強い圧迫感に頭を上げることができず、涙がドレスに落ち続けていたが、声を出す勇気もなかった。
浅野遥の怒りは、浅野武樹の倍以上恐ろしかった。
彼女が今の全てを手に入れられたのは、既に浅野遥の慈悲だった。得意になって、さらなる望みを持つべきではなかった。
桜井美月はしばらく待ったが、叱責や罰は来ず、代わりにハンカチが差し出された。
浅野遥がそれを渡しながら、ため息をつき、低い声で言った。「涙を拭きなさい。」
桜井美月は恐縮しながらそれを受け取り、浅野遥を見上げ、困惑の表情を浮かべた。
気分の変わりやすさといい、父子は同じ型から作られたようだった。
浅野遥は黒い革のソファに座り直し、冷めたコーヒーを一口飲んで、表情はいつもの冷淡さに戻った。
「浅野グループに入ったら、どうするつもり?」
桜井美月は顔の涙を拭い、姿勢を正して答えた。「もちろん、小山千恵子を浅野グループから追い出します。浅野おじさんの心配はわかります。私を社長秘書室に置くことで、おじさまの監視も行き届きますし、私も仕事がしやすくなります。」