黒いロールスロイスファントムが都市高架を走り、車内は暖かかった。
小山千恵子は、浅野武樹の木質の香りがこれほど侵略的だと感じたことはなかった。
車内のこの小さな空間で、彼女の全身を包み込むほどだった。
誰も口を開かず、小山千恵子は少し緊張していた。
もう帝都の冬で、今日は一日中曇り空だった。
小山千恵子はショーの会場を振り返り、ライトが夜空を照らしていた。
彼女は軽く笑い、感慨深げだった。
浅野武樹は横目で小山千恵子を見た。彼女はバックミラーを静かに見つめ、その優しい横顔は彼が描いた油絵そのものだった。
この数年間、彼女は何も変わっていないようだった。
しかし彼はもう彼女に触れる勇気がなかった。それは冒涜のように思えた。
浅野武樹は低い声で言った。「千恵子、雪が降ってきたよ。」
小山千恵子は突然の声に思考を中断され、我に返った。
頭を上げると、優しい黄色い光を放つ街灯の下で、銀白の雪が舞っていた。
道路は徐々に白く覆われ、車も少なくなってきた。小山千恵子はようやく、浅野武樹が彼女をどこに連れて行こうとしているのか気づいた。
「これは療養院への道?」
祖父が亡くなった後、彼女はその療養院で重病の日々を過ごした。
今回帝都に戻ってきても、まだそこに戻る勇気がなかった。
浅野武樹の目には憂いが浮かび、うなずいて小さく「うん」と答えた。
なぜか、記憶を取り戻した後、最初に思い浮かんだ場所がこの療養院だった。
彼にはまだ、そこに置いてあるものがあった。
小山千恵子は少し不思議そうに「どうしてそこに行くの?」と尋ねた。
浅野家が一時的に療養院を買収したことはあったが、千葉隆弘はすぐに人脈を使ってそれを取り戻した。
それ以外に、浅野武樹と療養院が関係する理由は思いつかなかった。
浅野武樹は軽くため息をつき、珍しく戸惑いの笑みを浮かべた。「僕には大切なものがまだそこにあるんだ。一緒に見に行きたいと思って。」
記憶を取り戻した後、小山千恵子に対して自分がしたことすべてを思い出し、もはや彼女を自分の側に留める資格はないと感じていた。
それでも浅野武樹は、自分の心の内を小山千恵子の前に晒したかった。
そのとき、彼女が去るにせよ留まるにせよ、彼は二言は言わないつもりだった。