第360章 彼女を今回だけ堕落させて

浅野武樹は喉仏を動かし、口を開きかけたが何も言わなかった。

彼は最近、資産の移転を完了させ、不動産もほぼ売却していた。

南アメリカへの旅は命を賭けなければならないもので、彼自身も大きな自信はなかった。

そしてリスクが大きすぎるため、小山千恵子と小山優子を巻き込みたくなかった。

しかし今となっては、もう千恵子に嘘をつくことはできない。

誰に対しても嘘をつけるかもしれないが、千恵子の前では本能的に正直でありたかった。

何から逃げているのか……

唯一逃げているのは、おそらく千恵子に近づきたくてたまらない自分の心だろう。

浅野武樹は溜息をつき、額の前の乱れた髪をかき上げた。その目には隠しきれない寂しさが浮かんでいた。

「千恵子、君が知りたくないと思っていたから、あまり話さなかったんだ。知りたいことは全て話すよ」

小山千恵子は手にしていた本を置き、腕を組んで目の前の男性を見上げ、しっかりと問い詰めようとする様子だった。

「いいわ。南アメリカに行って、浅野遥と浅野秀正の闇ビジネスに対処するって言ってたわね。それは知ってるわ。でもその後は?帝都に戻るつもりはないの?」

浅野武樹は千恵子の澄んだ目を避け、心の内を見透かされたかのように少し心虚そうにした。

確かに帝都に戻るつもりはなかったが……

これは千恵子が望んでいた結果ではないのか?そうでなければ、あの時必死に彼から逃げ出す必要もなかったはずだ。

感傷的に聞こえるかもしれないが、千恵子のいない場所なら、どこで生きていても同じことだった。

小山千恵子の心には怒りが込み上げてきたが、それを抑え込んで表に出さなかった。

自分が何に怒っているのかわからなかったが、ただ胸が詰まる思いだった。

彼女は浅野武樹から逃げることができ、彼から遠ざかることもできた。

でも浅野武樹が自分を避け、距離を置こうとすると、なぜこんなにも胸が痛むのだろう。

小山千恵子は自覚のない焦りを含んだ口調で言った。「いいわ。あなたに考えがあるのはわかったわ。でも浅野早志はどうするの?まだあんなに小さいのに」

子供のことを考えると、浅野武樹の表情が揺らぎ、目の奥に忍びがたい思いを押し込め、薄い唇を引き締めたまま反論しなかった。

黙り込む男性を見て、千恵子は何か隠していると思い、数歩近づき、やや詰問するような態度を見せた。