浅野武樹は寒さで耳先が少し赤くなっていたが、目は温かく優しかった。彼は身をかがめて小山千恵子のコートのボタンを留めてあげた。
「君が約束を破ることは滅多にない、忙しい時以外は。私も特に予定はないから、少し待つくらい大丈夫だよ」
昔から彼は知っていた、小山千恵子がデザインの作業中に邪魔されるのを嫌うということを。
だから中腹別荘に彼女の作業台があっても、郊外に別の作業スタジオを建てたのだ。
当時、浅野武樹はあまり喜ばず、小山千恵子になぜそんな場所を探したのかと尋ねると、女性は少し怒ったように甘えた。
「あなたがいつも私の前をうろうろするからでしょ!集中力が散漫になるわ!」
「浅野武樹?」
優しい呼びかけが彼を現実に引き戻した。小山千恵子は助手席のドアハンドルを握り、少し不思議そうに彼を見ていた。
浅野武樹は少しぼんやりした表情を引き締め、運転席に戻り、車を始動させた。暖房が勢いよく動き始めた。
男は時計を見て、低い声で言った。「黒川さんが君が市内中心部のあの淮揚料理店を好きだと言っていた。ちょうど今日はシェフが帝都にいるらしい。どう、食べに行ってみるか?」
小山千恵子はうなずいた。「いいわね、ちょうどお腹が空いてきたところだわ」
車はゆっくりと夜の闇に入っていった。小山千恵子は窓の外の車の流れを見ながら、浅野武樹が今日はとても静かだなと思った。
彼が記憶を取り戻してから、性格が大きく変わったとは言えないが、彼女に対しては確かに話すことが多くなっていた。
普通なら、浅野武樹はこの時、中腹デザインはどうだったか、あの老狐のウィリアムが何か嫌がらせをしなかったかなどと尋ねるはずだった…
しかし今日は意外にも沈黙していて、眉をひそめてはいなくても、全身から緊張感が漂っていた。
彼は何を心配しているのだろう?
小山千恵子は静かに口を開き、車内の沈黙を破った。
「今朝、お父さんとの話はどうだった?」
彼女は朝、医者の言葉を考えるのに忙しく、まだ尋ねる時間がなかった。
もしかして浅野武樹はこの会話のせいで、こんなに心配しているのだろうか?
浅野武樹の表情はかなり和らぎ、口元が緩んだ。
「黒川さんは教養があり威厳があって、趣味も悪くない。確かに噂通りの人物だった」