之恵は苦笑いを浮かべた。彼が何を思おうと、もうこの段階まで来てしまった以上、説明する必要もない。すべては決まってしまったことだから。
深志は署名済みの書類を一部取り、もう一部を之恵に渡すと、冷徹な口調でゆっくりと言った。
「離婚届はしばらく出さない。私たちのことは内密にしておいてくれ。会社の新製品発表会が迫っているし、何か問題が起きるのは許せない。特にお爺さんには…」
言い終わる前に、之恵が冷静に言葉を引き取った。
「安心して。お爺様には黙っておくわ。秋山さんの件で必要なら、私が説明することもできるわ。結局、お金をもらって仕事をするだけだから」
「そうか、お願いする。本当に必要になるかもしれない」深志は皮肉な笑みを浮かべながら、暗い目で之恵を見つめた。
之恵は喉が詰まり、胃の中がひどく酸っぱくなった。耐えきれずトイレに駆け込むと、ドアの前で吐き出した。
朝食は言葉少なで、冷たい空気の中で終わった。
深志はサンドイッチを半分残したまま、何も言わずに席を立った。
之恵は彼の逞しく凛とした後ろ姿を見つめ、しばらくの間沈黙しながら、初めて会った日のことを懐かしく思い出した。
彼はオーダーメイドのスーツを着てカフェに入ってきた。切れ長の目、通った鼻筋、そして神々しいほどのハンサムさに、彼女は一瞬で心を奪われた。
藤田お爺さんの取り計らいで、二人はその日のうちに入籍した。まるで運命に引き寄せられるように、あっという間に新たな関係が始まった。
新婚初夜、彼は無表情で契約書を投げ渡してきた。
「好きな人がいる。結婚したのは爺さんに強く迫られたからだ。彼の声は冷たく、無感情だった。この契約書に目を通してほしい。問題なければサインしてくれ。俺たちの結婚は公表しない。三年後に円満に別れる。お金以外は何も与えられない」
彼は言った通りにした。三年の間、カードは自由に使わせてくれたが、感情の欠片も与えてくれなかった。夫婦の営みの時さえも、彼の表情は冷たく無感情で、まるで義務を果たすかのようだった。
今、よく考えてみれば、彼が自分との結婚を承諾したのは、奈緒に七分通り似ているこの顔が理由だったのだろう。
之恵が我に返ると、手元が狂って牛乳を倒し、半分がこぼれていた。
小柳さんが慌てて駆け寄り、片付けに取りかかった。
「奥様、普段はおとなしいのに、今日はどうしたんですか?もう少し言葉を控えめにしては?夫婦喧嘩で離婚なんて言い出すべきではありませんよ。旦那様も本気で離婚したいわけじゃないでしょう。サインをするときの顔色を見ていなかったんですか?この老婆の言うことを少し聞いて、今晩、旦那様に謝ってみては?そうすれば何事もなかったことになるかもしれませんよ」
之恵はティッシュを手に取り、ぼんやりと曇った目をそっと拭った。
「でも、私の心の中では、どうしても許せないの」
奈緒は常に彼女の心に刺さったトゲのような存在で、その痛みから逃れることはできなかった。
食事を終え、之恵は手際よく荷物をまとめて錦園を出た。タクシーに乗り込んだその瞬間、彼と別れた今、行き場所がないことに気づき、胸が締め付けられた。
「どこかホテルでいいです」
彼女は運転手に言った。
その時、深志は会議中で、小柳さんからの電話を受けた。
会議中の電話を最も嫌っていた彼だが、今日は例外的に電話に出た。
「旦那様、奥様がスーツケースを持って出て行かれました。止められませんでした。急いで人を出して追いかけてください、まだ遠くには行ってないはずです」
電話の向こうで、小柳さんが焦った様子で話してきた。
深志は眉間を押さえながら、理由は分からないが、胸の中で激しい苛立ちが込み上げてきた。
離婚手続きがまだ終わっていないのに、之恵がサインをした途端、すぐに立ち去るとは予想もしていなかった。彼女の決断力は、予想を遥かに超えていた。
三年もの間、同じ寝床で過ごしてきたのに、彼女の心の中には、最後の別れの食事を共にする情すら残っていないのか?
彼女が泣いたり騒いだりするだろうと思っていた。もしそうなら、彼は高慢を捨てて慰めてやるつもりだった。しかし、彼女は一滴の涙も流さず、まるで自分以上に離婚を急いでいるかのように振る舞っていた。
彼女がよく人に尋ねていた明人さんのことを思い出すと、深志の胸はまるでレモンを詰め込まれたかのように酸っぱく膨れ上がった。
「必要ない」
彼は冷たく小柳さんに一言告げて電話を切り、会議室に戻ると、険しい表情で今日の会議は終了だと宣言した。その後、秘書の柏木正(かしわぎ ただし)を呼び出した。
「妻がどこに行ったのか、最近誰と接触していたのか、すぐに調べろ」
「違う、鈴木さんだ」そう言いながら、自分で訂正した。
柏木秘書は驚いた表情を浮かべた。社長の機嫌が悪い理由がわからなかったが、奥様との関係に違いないと思った。前回も、奥様と喧嘩した後に同じような恐ろしい形相で出社していたからだ。
「社長、通話記録も調べてみましょうか?」
「調べろ。彼女と接触のあった人物で、名前に『明』の字が入った者も一緒に調べろ」
「承知しました」
正は命令を受け、急いで仕事に取り掛かった。
深志は指示を出し終わると、小柳さんから送られてきたメッセージを確認し、顎を引き締めた。
「奥様がこれを置いていきました」
文章下の写真は、彼の副カードのものであった。
彼が言及していないのに、彼女は自ら返却してきた。
よくも無断で出て行ったものだ。深志は怒りを抑えきれず、彼女のカードをロックした。
お金がなくなれば、自然と戻ってくるだろう。それが現実だ。
之恵はホテルのフロントで登録を済ませ、支払いをしようとしたが、カードが使えないと言われた。冷静に考えれば、それが誰の仕業かはすぐに分かった。
部屋が取れず、彼女はスーツケースを引きずりながら、友人の八木修二(やぎ しゅうじ)に助けを求めた。
修二は男性で、同性愛者であり、之恵の親友である。
電話を切ってから三十分も経たないうちに、修二は車を走らせて駆けつけた。路肩に立つ、艶やかな容姿ながらも打ちひしがれた表情の女性を見て、彼は心の中で深いため息をついた。
彼はぶつぶつ文句を言いながら、彼女の荷物を持ち上げた。
「前から言ってたでしょ?男を選ぶなら、イケメンで金持ちでも性格が悪いのはやめとけって。なのにあなたったら、見事に全部地雷踏んだわね。神様が丹精込めて作ったその顔も、台無しじゃない。三年も一緒にいたのに、この程度の荷物で追い出すなんて……聞いたことないわよ、こんなケチな社長。ああ、私も長生きするもんね」
修二は、耳の痛い忠告をぶつぶつと続けていたが、之恵はそれを聞く気にはなれず、ただ静かにしていたかった。
「彼、小切手をくれたの。金額は好きに書いていいって」
之恵はシートに身を預け、目を細めながら、柔らかな声で言った。
修二は片手でハンドルを握りながら、藤田の奴を延々と罵っていたが、彼女が小切手を受け取ったと知ると、ようやく非難をやめた。
「言っておくけど、二十億円以下なんて書いたら、軽蔑してあげるからね」
「じゃあ、あなたの言う通りにするわ。二十億円、書いてあげる。今すぐ引き出しにでも行きましょうか?」
修二はそれが冗談だと思ったが、之恵はしわくちゃになった小切手を取り出し、何の躊躇もなく二十億円と書き込んだ。
彼女の銀行カードには、自分でアルバイトをして稼いだお金だけが入っていた。深志とは一銭の関係もないのに、どうして彼が勝手にロックをかけ、彼女を路頭に迷わせ、ホテルにすら泊まれなくさせたのか。
之恵は心の中で怒りを抑えきれずにいた。彼がここまで彼女を追い詰めるのなら、欲張りな要求をするのも当然だろう。
「銀行に行きましょう。お金を引き出してくるわ」
「之恵、親友の私もこれまでそんな大金、見たことないよ。この車に二十億円は積めるのかしら?それとも、もっとでかいSUVに換えた方がいい?」修二はハンドルを回しながら、目を輝かせた。
「私も見たことないわ。今日は見識を広げる日ね」
藤田グループ社長室。
深志は上の空で書類を眺めていた。そのとき、柏木秘書が慌てて飛び込んできた。
「調べたのか?」
柏木秘書が答える前に、深志は先に問いを重ねた。
「社長、奥様が銀行でお金を引き出そうとしています」柏木秘書は慌てた様子で報告した。
深志は首をかしげた。彼女のカードをロックしたばかりなのに、どうやってお金を引き出すつもりなのか。
「奥様が社長の小切手で二十億円を引き出そうとしています。金額があまりにも大きいため、銀行側が簡単には処理できず、社長の署名が必要とのことです」柏木秘書は一字一句丁寧に伝えた。
柏木秘書は、社長の表情が次第に暗くなっていくのを見守りながら、最後の言葉を歯の間から絞り出すように言った。
奥様がどこからそんな大胆な勇気を得て社長に挑戦しようとしているのかは分からないが、柏木秘書はただ説明するだけで、社長に殺されそうな気がしていた。
深志はコーヒーを一口飲んで、思わずむせかけた。