結城暁は携帯を受け取ると、布団を跳ね除けて窓辺へ歩いて行った。
二人は数分間、何か話していた。南雲泉には会話の内容までは聞き取れなかったが、彼の眉が険しくなったり、和らいだりするのが見えた。
電話を切って、暁が戻ってきた。
泉は少し気まずそうに彼を見た。「ごめんなさい、電話、間違えて取ってしまって……。藤宮さん、誤解されたのでは?」
「もう説明した」
一呼吸置いて、彼は泉に視線を向けた。「俺たちは夫婦だ。同じベッドで寝て、同じベッドで目覚める。本来、ごく当たり前のことだろう」
「……ええ」泉は頷いた。
起き上がろうとした時、暁が不意に彼女の顔にぐっと近づいた。「顔、どうしたんだ?」
泉は慌てて鏡の前に走り、自分の顔を確かめた。案の定、顔には赤い発疹がたくさんできていた。脚にも、腕にも、身体のあちこちに。
昨日、卵アレルギーなのにケーキを食べたせいだと分かっていた。
「ちょっとアレルギーが出ただけ。もう薬は飲んだから、数日すれば引くと思いますわ」と泉は言った。
「本当に、大したことはないのか?」暁が念を押す。
「ええ、心配しないで。お爺様に会いに行くのに、支障はありませんから。
「少し待ってください。お化粧して、着替えたら、一緒にお爺様のところへ、離婚の話をしに行きましょう」
彼が、一刻も早く自分に離婚を切り出してほしいと望んでいることは分かっていた。
もう、やり直す余地がないのなら、惨めな女のように、彼の同情や憐れみを乞うような真似はしたくなかった。
そんなことは、泉にはできない。
彼女のプライドが、それを許さない。
「お爺様のところへ行く必要はなくなった。それより、病院へ行って君の顔を見てもらおう」と暁が言った。
泉は呆気にとられた。「お爺様が……もう、同意してくださったの?」
結城暁は首を振った。
そして、彼女に向き直って説明する。「今、言おうと思っていたんだ。お爺様の体調があまり良くないらしくてな。傘寿のお祝いを前倒しにして、1週間後に行うことになった。
「お爺様は昔から君を可愛がっている。もし今、離婚の話をしたら、あの方は心から誕生日を祝えなくなるだろう。お祝いが終わってから、改めて話をすることにしよう」
「……わかりました」泉は頷いた。「お爺様は、結城家の中で一番私を可愛がってくださって、一番良くしてくださった方ですもの。私も、お爺様には心から楽しい気持ちで、傘寿のお祝いを迎えてほしいわ」
「その言い方だと、まるで俺が君に冷たいみたいじゃないか?」暁がからかうように言った。
泉は言葉に詰まった。
母が亡くなった後、お爺様が泉を結城家に迎え入れ、温かい家庭を与えてくれた。ずっと面倒を見てくれて、大学まで行かせてくれた。
もしお爺様がいなかったら、この数年、自分がどんな日々を送っていたか、想像もできない。
「心配なさらないで。お爺様のお誕生日が終わったら、すぐに私から離婚の話を切り出しますから。あなたの足を引っ張るようなことはしませんわ」
暁がお爺様の誕生日を口実に、自分が離婚を引き延ばすのではないかと心配しているかもしれないと思い、泉は急いで付け加えた。
「ずいぶん、離婚を急いでいるみたいだな。俺よりも、ずっと?
「どうしてだ?そんなに急いで、例の『昔の男』に会いに行きたいのか?」
暁は眉間を揉んだ。理由は分からないが、妙に心が苛立つのを感じていた。
朝食後、結局、南雲泉は結城暁の強い勧めを断り切れず、病院へ連れて行かれた。
診察室で。
泉が椅子に座ると、暁がその隣に立った。
彼女は少し慌てていた。まさか彼がここまで付き添ってくるとは思っていなかったからだ。
「何に対するアレルギーか、自分で分かってる?」と医師が尋ねた。
「はい」
「分かってて、どうしてあんなにたくさん食べたんだね。こんなに酷くして、自分も苦しいだろうに。薬は飲んだのかね?」
泉は首を横に振った。少しバツが悪そうに。「……いいえ」
「とりあえず薬を出しておくから、家で飲んで様子を見てください。もし効きが悪ければ、すぐに注射を打ちに来なさい」
泉は無意識に手を下腹部に当てた。少し躊躇う。これらの内服薬が、お腹の赤ちゃんに影響しないだろうか、と。
でも、暁がすぐ隣に立っている。聞きにくい……。
どうしよう、と焦っていると、暁の携帯が鳴った。彼は電話に出るために部屋を出て行った。
泉はほっと息をつき、すぐに医師に向き直った。「先生、あの……私、妊娠しているんです。このお薬、飲んでも大丈夫でしょうか?」
「どうして早く言わないんだ。それなら塗り薬に変えよう。内服はやめておきなさい」
「ありがとうございます、先生。お手数をおかけします」
診察室を出ると、暁の表情は一変していた。
ここに来た時の穏やかさは消え失せ、極端に冷たいものになっていた。
薬局の窓口で薬を受け取るまで、彼は黙っていたが、ついに堪えきれなくなったように口を開いた。「大したもんだな。嘘までつけるようになったのか、君は」
泉は、彼が薬を飲んだと嘘をついたことを言っているのだと分かった。
彼女は慌てて俯いた。申し訳なさそうに。「ごめんなさい……わざとじゃ、ありませんの」
「じゃあ、意図的だったと?」
泉は絶句した。
「……この、捻じくれた解釈の仕方は何なの?」
「ただ……もうすぐ離婚するのだし、別れたら、私たちはもう他人同士。赤の他人になるのだから、これ以上、あなたに迷惑をかける必要はありませんと思いますの。この2年間、もう十分、あなたには迷惑をかけて……」
「自分が面倒な存在だって、自覚はあったのか?」暁が悪態をつくように言った。
泉は耳まで赤くなった。胸の奥が、きゅっと酸っぱくなる。「ほら、やっぱり。彼は私のことを、お荷物だって、面倒だって思っていたんだわ」
だが、次の瞬間、暁の声が響いた。
「もう2年だぞ。2年、面倒を見てきたんだ。今更、あと一回増えたって、どうってことない」
薬を受け取り、用法・用量を確認していた暁が、ふと顔を上げた。「確か先生は、飲み薬を出すと言っていたはずだが……。どうして塗り薬に変わってるんだ?」
泉は内心焦った。
「……こういう時、彼の鋭すぎる観察眼は、ありがたくないわね」
「塗り薬でも、別にいいじゃない」と泉は言った。
「君のアレルギーは全身に出てるんだぞ。塗り薬じゃ時間がかかりすぎる。やっぱり飲み薬の方が効果は早い。それに、もうすぐお爺様の傘寿のお祝いだ。もしその時までに君の発疹が消えなかったら、あの方がまた、俺が君を虐待めているんじゃないかと思われかもしれないだろう」
「お爺様には、ちゃんと私から説明しますわ。それに、そんなに長く治りませんなんてことはありませんから」泉は真剣な顔で請け合ったが……
暁はそれでも譲らなかった。
「いや、駄目だ。やはり飲み薬に変えてもらおう。効果がなくて、また注射を打ちに来る羽目になっても困る」
そう言うと、彼は踵を返し、再び診察室へ向かおうとした。
泉は額を押さえ、慌てて彼を呼び止めた。「暁さん、待って。あの……私が、先生に塗り薬に変えてもらいましたの。ここ数日、胃の調子が悪くて……。飲み薬は、胃が弱っている時には良くないって聞きましたから。
「塗り薬は、効果が出るのは少し遅いかもしれませんが、より安全ですよね?」
その理由が、ようやく暁を納得させたようだった。
彼は足を止めた。
車に戻ると、泉はまず顔と脚、腕に薬を塗った。
ただ、うなじの部分は自分では見えない。どうしようかと困っていると、暁が自分から口を開いた。「手伝いを頼まないつもりか?」
彼はいつもこうだ。まるで、何でもお見通しであるかのように。
「……じゃあ」泉は薬を彼に手渡した。
暁は突然、眉をひそめた。「その態度はなんだ?頼み事をする態度じゃないだろう」
泉は唇を噛んだ。ええい、ままよ、と開き直る。
艶っぽい目で彼を見上げ、媚るような、甘く溶けるような声で言った。「……ダーリン、お願い。手が届かないの。塗ってくださらない?」