藤宮清華、足が不自由に

「泉、誰がそんな口の利き方を……」

結城暁の言葉は、最後まで続かなかった。

突然、車が激しく急ブレーキをかけたのだ。

南雲泉は前のめりになり、暁の胸に強く身体を打ち付けた。一瞬、目の前にキラキラと散る。

幸い、暁がとっさに彼女の頭を手で庇ってくれたため、頭を強打するには至らなかった。

運転手がしきりに謝罪する。「申し訳ありません、社長!」

「運転中は、もっと集中しろ」

暁は冷たく言い放つと、泉に向き直った。「……先ほどの口調は、何ですか?」

「あら……ダーリンが、お願いしろって言ったんじゃありませんこと?」

泉は、なおも猫なで声で、媚るように続けた。

結婚して数年、暁に対してこんな風に甘えた声を出したのは、これがほとんど初めてだった。

以前は、彼に嫌われるのではないか、わがままな女だと思われるのではないかと恐れて、ずっと自制してきた。

でも、どうせもうすぐ離婚するのだと思うと、かえって大胆になれた。

たとえ彼が気に入らなかったとしても、これが最後なのだから。

「……ちゃんと座りなさい」暁は泉を見た。

泉はすぐに背筋を伸ばして座り直した。

「今度からは、普通の話し方をしなさい」と彼は付け加えた。

「はい」

彼は泉の返事に、ひどく不満そうな様子を見せた。「『はい』、じゃないでしょう。聞こえましたか、と聞いているんです」

「……聞こえました」

「聞こえただけでは意味がない。肝心なのは、覚えておくことです」

「特に……他の男に対して、あのような口調を使ってはいけません」と暁は続けた。

言い終えて、彼は自分自身に低く悪態をついた。「結城暁、お前はいったい何をしているんだ?」

どうかしている。

もうすぐ離婚するんだぞ。離婚した後、泉が誰に甘えようが、お前に止める権利があるのか?

苛立たしげにネクタイを緩めると、ようやく呼吸が少し楽になった気がした。

薬を塗る暁の指の動きは、とても軽く、優しかった。

彼の指先が、泉のうなじの肌をそっと撫でる。まるで羽毛でくすぐられているようで、むずがゆい。

特に、彼の吐息が、すぐそばの柔らかな耳たぶにかかるのが……言いようもなく、心をかき乱す。

泉の身体が、思わず微かに震えた。

暁の指も、ぴくりと震えた。

彼の瞳は深く、その奥にある感情を読み取ることはできなかった。

ようやく薬を塗り終え、泉は安堵の息をついた。

赤信号で車が停まった時、暁が突然口を開いた。

「左へ。ショッピングモールに向かってくれ」

泉は訝しんだ。「今日は、会社へは行かないのですか?」

「お爺様の誕生日が早まったんだ。まだプレゼントを用意していなかっただろう」

その説明で、泉はすぐに合点がいった。頷いて答える。「ええ、私も一緒に行きます」

二人は直接、宝飾品フロアへ向かった。店に着いた途端、柔らかな呼び声が聞こえた。「暁!」

泉が振り返ると、そこにいたのは藤宮清華だった。

その刹那、泉は息を呑み、その場に凍りついた。

もしこの目で見ていなければ、信じられなかっただろう。

なぜなら、彼女の目に映ったのは――車椅子に座る、藤宮清華の姿だったからだ。

「どうして……?」

「彼女の、足は……?」

藤宮清華の足が不自由だなんて、誰からも聞いたことがなかった。舞踏家をやっていたのではなかったか?

泉はまるで雷に打たれたかのように、呆然と立ち尽くし、しばらくの間、何の反応もできなかった。

やがて、暁が口を開いた。「どうしてここに?エアコンが効きすぎている。そんな薄着で、寒くないか?」

言いながら、彼は自分の上着を脱ぎ、清華の肩にかけてやった。

清華は少し照れたように泉を見た。「平気よ、本当は。暁ったら、心配性なの。私が風邪をひくんじゃないかって」

その言葉は、明らかに泉に聞かせるためのものだった。

泉は俯き、何も言わなかった。

清華は再び暁に向き直る。「お爺様のお誕生日が早まったって聞いたわ。私も何かプレゼントを選びたいのだけど、お爺様の好みは、あなたの方がよく知っているでしょう?一緒に選んでくれないかしら?」

「ああ、いいとも」

清華はたちまち嬉しそうに微笑み、まるで愛らしい小動物のようだ。

「満里子、ちょっと喉が渇いたわ。お水を持ってきてちょうだい」

「お嬢様、申し訳ありません。保温ボトルの水、もう空でした。電話して、持ってきてもらうように頼みますね」

暁がすぐに口を挟んだ。「持ってきてもらうなんて、いつになるか分からない。俺が汲んでくる。ここで待っていてくれ」

そして、彼は泉を見た。「すぐ戻る」

「……ええ」泉は頷いた。

暁が去ると、清華は付き添いの満里子も人払いした。

瞬間、その場には泉と清華の二人だけが残された。

泉が唇を動かし、何かを言いかけた、その時。清華が先に口火を切った。「彼はいつもこうなの。私のこととなると、どんな些細なことでも、自分でやらなければ気が済まないのよ。

「私も言ったのよ、そばにいるアシスタントに任せればいいのにって。でも、暁は、心配だからって言うの」

彼らの睦言など聞きたくもないのに、その言葉は容赦なく泉の脳裏に染み込んでくる。

結城暁は、確かに細やかな気配りをする人だ。

結婚して2年、彼女の誕生日、さまざまな記念日、祝日。彼は1つとして忘れたことはなかった。

ただ――そのすべてを、桐山翔に任せていた。

彼自身が、一度として手ずから準備したことはなかったのだ。

それなのに、藤宮清華のためには、保温ボトルにお湯を汲むことさえ、自分で行くと言う。

「やはり……比べなければ、傷つくこともないのに」

「泉、あなたは、完敗よ。惨めなくらいに……」

しばしの沈黙の後、清華が再び口を開いた。「少し、お話ししない?」

「……いいわ」泉は頷いた。

泉が自分の足元をじっと見つめているのに気づき、清華は自ら切り出した。「やはり……あなたは、本当に知らなかったのね」

泉は首を振った。「聞いたこともありませんでした。藤宮さん、その足……どうして、そんなことに?暁さんからは、何も……」

「暁があなたに話すはずがないわ」清華の声に、棘が混じる。

はっとしたように、彼女は深呼吸して感情を抑えた。「ごめんなさい、少し、取り乱してしまって」

「暁だけじゃないわ。結城家の人間は、おそらく誰も、あなたには言えなかったはずよ」

「……どうして?」

「結城家では、結城お爺様の言うことは絶対だもの。あの方が直々に下した命令に、誰が逆らえるというの?」

​泉が訝しげな顔をしているのを見て、清華は続けた。

「結城家は、あなたを大切にしすぎたのよ。特に、結城お爺様はね。南雲さん、知っている?あなたは取るに足らない家柄の出で、何の背景も持たないけれど……あなたは、あまりにも幸運だったのよ。

「結城お爺様があなたを実の孫娘のように可愛がったのは、ただ、あなたのお母様が彼らの命を救ったからだと?時々、考えるの。もし、あの方たちを救ったのが、私の母だったら……?そしたら、私と暁の結末は、違っていたのかもしれないって。私は、望み通り、彼の妻になれたのかもしれないって……」

泉の胸に、良くない予感が渦巻いた。

なぜか、自分が知らない何かが、糸をたぐるように、一枚一枚、その姿を現そうとしているのを感じた。

「……それは、どういう意味?」

泉の呼吸が、少し速くなる。

「当時、結城お爺様はあなたと暁を結びつけようと躍起(やっき)になっていた。暁に、あなたと結婚するように迫ったのよ。でも、暁は決して首を縦に振らなかったわ。二人は長い間、対立していた。でも、暁はまだ若かったし、結城家の実権は結城お爺様が握っていた。あの方はあらゆる手段を使って暁を追い詰めたの。結局、暁も抵抗しきれず……あなたと結婚するしかなかったのよ」

「……嘘よ」

泉は突然、針を逆立てたハリネズミのように、激しく反発した。

受け入れられなかった。自分の結婚が、そんな後ろ暗い、強制されたものだったなんて。

藤宮清華は、諦めたように笑った。「私が言っていることは、すべて事実よ。だって、暁は……当時、私を守るために、あなたと結婚したのだから」