「……なんですって?」
南雲は信じられなかった。身体が、抑えきれずに震え出す。
急に、ひどく寒くなった。
冷たいものが足元から這い上がり、四肢の隅々まで侵食してくるようで、ぶるぶると震えが止まらない。
「あの時……お爺様は、私に尋ねたわ『泉、もし暁が君と一緒になりたい、妻に迎えたいと言ったら、君は承知するか?』」
『お爺様……それは、暁さん自身の意思ですか?』
あの頃、彼が愛しているのは藤宮清華だと知っていた。だから、そう尋ねたの。
もし彼が、お爺様に強制されているのなら、私は絶対に同意しない、と自分に言い聞かせた。結婚という鎖で、彼を縛りたくなかったから。
ましてや、そんな方法で、彼を手に入れたくなかったから。
『お馬鹿さんだな。暁のあの頑固な性格を知っておろう。あやつ自身が望まなければ、わしが無理強いなどできるものか』
その後、彼女は結城暁にも尋ねた。
『あなたは、ご自身の意思で、私と結婚してくださるのですか?お爺様が私をとても可愛がってくださっているのは知っています。でも、お爺様の命令だからという理由で、暁さんに結婚してほしくないんです。あなたを、困らせたくない……』
あの時、結城暁は何と答えたのだったか?
『自分の意思だ。清華とは、もう別れた。……契約を結ぼう。期間は、3年だ。その間に、君を愛せるように努力する。もし3年経っても、やはり君を愛せなかったら、その時は円満に離婚しよう。それで、同意してくれるか?』
『はい、同意します!』あの時の泉は、満面の笑みを浮かべていた。
暁は、こうも尋ねた。『どうして、俺との結婚に同意するんだ?君には、好きな人はいないのか?結婚に縛られても構わないと?自分の愛を追い求めようとは思わないのか』
泉はそう答えた。『いますよ。8年間、ずっと好きだった人が』
そして、首を横に振った。『もう、追い求めません』って
だって、もう、彼の妻になったのだから。恋愛を飛び越えて、いきなり結婚という、人生の大きな一歩を踏み出したのだから。
それなのに……今、藤宮清華は、そのすべてが嘘だったと言う。
もし、彼女の言っていることが本当なら。
それは、最初から、みんなが泉を騙していたということになる。
3年間の契約?
南雲泉は指をきつく握りしめ、笑いたくなった。馬鹿みたい。それはただの口実。見え透いた、嘘。
あの時の泉は、感動して涙まで流したというのに。暁さんが本当に藤宮清華を忘れて、自分と真剣にやり直そうとしてくれているのだと、信じ込んで。
結局、自分だけが、何も知らないお馬鹿さん。いいように、操られていただけ。
「南雲さん、あなたは本当に、純粋で可愛らしいのね。暁が愛しているのは、私なのよ。彼が、自分の意思であなたと結婚するはずがないでしょう?彼がどうして3年という期間を設けたか、分かる?それは、3年後、あなたが何のわだかまりもなく、何の文句も言わずに、自分から離婚を切り出すように仕向けるためよ。彼を自由にして、私を迎え入れられるようにね。
「暁は知っていたの。あなたからお爺様に申し出なければ、お爺様は決して同意しないって。彼自身が言い出しても、絶対に許してもらえないって。
「私と一緒になるために、彼は本当に、多くの労力を費やしたのよ。……この、美しい罠を仕掛けることさえもね」
藤宮清華の言葉は、泉を氷の穴に突き落としたかのようだった。
寒気に包まれ、とても寒く感じた。
もし、これらがすべて嘘だとしたら。
これまでの、数えきれないほどの日々も、夜も、すべて、演技をしていたというの?
そして、あの夜も……?
彼に抱きしめて、睦言を交わし、温もりを分かち合った、あの夜も……?すべてが、嘘?
一つ残らず、真実ではなかったと?
泉の胸は、苦しく締め付けられた。急に、自分が道化師のように思えてきた。愚かで、滑稽な。
だから、結城暁の巧妙な計画に、まんまと嵌ってしまったのだ。
「……信じられないわ。あなたが、お爺様がどうやって彼を脅迫したのか、教えてくれるまでは」
泉は拳を握りしめた。これだけ長く付き合ってきて、彼女は結城暁のことをよく分かっていた。
よほど重要な切り札がなければ、彼の性格からして、たとえお爺様が首に刃を突きつけようとも、彼が素直に屈服するはずがない。
藤宮清華は、どこか嘲るように微笑んだ。
「南雲さん、あなたは本当に、崖っぷちに立たされるまで諦めないのね。そんなに知りたいのなら、教えてあげるわ。
「お爺様は、暁を脅したのよ。もし、あなたと結婚しないのなら、私を国外に追いやると。生きている限り、二度と会えなくさせると。……一緒にいられなくても、いつか再び会える日のために、だから、妥協したの」
泉は唇を噛み締めた。苦しい。
苦しくて、一言も言葉が出てこない。
だが、清華は容赦しなかった。追い打ちをかけるように続ける。「それから……私のこの足のこと。あなたたちの結婚式の日、暁が式場で電話を受けて、その場を飛び出しそうになったのを、覚えている?」
「……ええ」
自分の結婚式だ。忘れるはずがない。
「あの時、あなたたちの結婚式場へ向かう途中だったの。そこで、事故に遭ったのよ。死にかけたわ。丸一日、生死の境をさまよって、かろうじて命だけは取り留めたけれど……この両足は、もう使い物にならなくなってしまったの」
だから、なのか……。結婚式が終わるとすぐに、彼は慌ただしく出て行ってしまった。
「あの時はそう尋ねた。『会社で何かあったの?』って」
彼は、『友人が事故に遭ったから、見舞いに行きたいが、お爺様が行かせてくれない。だから、口裏を合わせてほしい』と言った。
覚えている。お爺様がわざわざ電話をかけてきて、こう尋ねたわ。『泉や、暁のやつ、ちゃんとそばにいておるか?』
『はい、お爺様。すぐそばにおりますわ』
私は、馬鹿みたいに、彼の嘘に加担した。
その結果、新婚初夜に彼は一晩中、帰ってこなかった。
彼は、新婚の夜に、別の女のそばにいたのだ。
その後の数日間も、彼はいつも朝早く出て、夜遅くに疲れ切って帰ってきた。
でも、彼は一度も教えてくれなかった。その『友人』というのが、『藤宮清華』だなんて!
もし、あの時、私が知っていたら……?
南雲泉は、苦い笑みを浮かべた。たとえ知っていたとしても、きっと、彼のために隠し通しただろう。
だって、あんなにも彼を愛していたのだから。彼がお爺様に叱責されるのを見るのが、耐えられなかったのだから。
「それで?あなたは今、私にこれらのことを話して、いったい何がしたいの?」
泉は彼女を見据えた。突然、全身の棘を逆立て、必死に柔らかな内側を守ろうとするハリネズミのように。
「あなたの足がそうなったのは、私のせいだとでも言いたいわけ?私が、あなたをこんな足にしたと?
「南雲さん、自分の胸に手を当てて考えてみなさいよ。そうではないと、本当に言えるの?」清華の声も、興奮で震えていた。
「もし、あなたがいなければ、お爺様は暁を無理強いしなかった。暁も、心ならずもあなたと結婚することはなかった。私も、あなたたちの結婚式に向かう途中で、上の空になって事故を起こすこともなかった。この足だって、こんな風にはならなかった!
「もし、あなたさえいなければ、私はとっくに暁と結婚していたわ。今頃は、子供たちに囲まれて、幸せに暮らしていたかもしれないのに!」
泉は必死で自分を抑え込んだ。
しばらくして、彼女は顔を上げ、冷静な声で言い返した。「私のせいではありません。あなたはただ、ご自身の足が不自由になったことへの、都合の良い言い訳と、責任転嫁の対象を探しているだけですわ。
「私は、お爺様を信じています。お爺様は、確かに私をとても可愛がってくださいました。でも、あの方があなたと暁さんの結婚に反対なさったのには、きっと理由があったはずです。もしあなたが、本当にお爺様の理想の孫嫁にふさわしい方だったのなら、私一人がいたところで、いえ、たとえ千人、一万人の南雲泉が現れたとしても、あなたのその地位が揺らぐことなどなかったでしょう。
「あなたが言うように、お爺様がそこまでして、あらゆる手段を使ってまで、あなたたちを引き離そうとなさったのなら……それは、藤宮清華、あなた自身に問題があったということではありませんこと?
「私、南雲泉は、確かにお金持ちのお嬢様ではありません。でも、あなたが一方的にいじめていい存在でもありませんのよ。何でもかんでも、私のせいにするのはおやめなさい。
「誰も、あなたに結婚式に来てほしいなんて頼んでいません。ましてや、飲酒運転をするように言った人なんて、誰もいませんわ」
泉の言葉は、一言一句が明瞭で、論理的だった。
まるで、一点の隙もないように。
藤宮は、信じられないという顔で泉を見ていた。
2年ぶりに再会した彼女は、どうしてこんな風に変わってしまったのだろう。かつて暁の後ろを、おどおどとついて歩き、すぐに顔を赤らめ、小声でしか話せなかった少女が……突然、こんなにも牙を剥くようになるなんて。
「……私が、一番愛している人の結婚式ですのよ。欠席するはずがないでしょう?」
「一番、愛している人?」泉は冷笑した。「藤宮さん、暁さんが知らないことでも、私が知っていることがありますのよ。あまり、私を追い詰めない方がよろしいのではなくて?あなたの、過去の汚らわしい行いを、すべてぶちまけられたくはないでしょう?」
「なっ……何を馬鹿なことを!私は、潔白よ!どうして、そんな風に私を陥(おとしい)れようとするの!?」
藤宮清華は激昂し、よろめくと、突然、車椅子から床に崩れ落ちた。
ちょうどその時、結城暁が戻ってきた。
彼は手にしていた保温ボトルを置くと、優しく藤宮清華を抱き起し、眉間を揉みながら冷たく尋ねた。「いったい、何があったのか、誰か説明してくれないか?」