「……一人で、ちゃんと自分のことはするんだぞ」
結城暁はそう言い捨てると、慌ただしく電話を切った。
「ええ……そうしますわ」
彼が電話を切るのがどんなに早くても、南雲泉の耳には、藤宮清華の声が届いていた。
その口から、はっきりと「キャンドルディナー」という言葉を。
結婚2周年の記念日に、夫は別の女性とキャンドルディナー……。考えると、本当に皮肉なものね。
藤宮清華は、本当に帰ってきたのだ。
信じたくなかったが、これが現実だった。
そしてその事実は、泉から戦う気力さえも奪い去り、あっという間に彼女を打ちのめした。
今に始まったことではない。2年前、藤宮清華と自分を比べた時点で、泉はもう、完膚なきまでに打ち負かされていたのだから。
結城暁が自分を選んでくれるなんて、どうして期待できただろう?
……ただ、お腹に赤ちゃんがいるから?
泉は今、そのことを口にしなかった自分を幸運だと思った。もし話していたら、それは自ら恥を晒すだけの行為になっていただろう。
ひとしきり泣き、感情を吐き出して。
泉の心は少し落ち着きを取り戻していた。彼の決意が固い以上、自分はただ、それを受け入れるしかないのだ、と。
シャワーを浴びて、ベッドに横になる。
なかなか寝付けずに何度も寝返りを打った。ようやく微睡みかけた、その時。司瑛人(つかさ えいと)から電話がかかってきた。「暁が酔っぱらって、手が付けられないんだ。迎えに来てやってくれないか」
泉は訝しんだ。「彼は藤宮清華と、甘い夜を過ごしているのではなかったの?」
それがどうして、司瑛人と飲みに行くことになるのだろう?
泉は言いかけた。「私、ちょっと都合が悪くて……。誰かに頼んで、送ってもらえませんか」
だが、その言葉が終わる前に、司瑛人は一方的に電話を切ってしまった。
かけ直してみても、向こうはすでに電源を切っているようだった。
込み上げる不快感を無理やり抑え込み、泉はベッドから起き上がって服を着替えると、運転手に暁がよく利用する会員制クラブへ送るよう指示した。
クラブに着くと、中は静まり返っていた。
結城暁はひどく酔っており、ソファで眠っていた。長い脚を組み、ネクタイはきちんと締められたまま。その姿は、いつものように隙なく端正だった。
この世には、完璧としか言いようのない人間がいるものだ、と泉は思った。どんな時でも、たとえ泥酔していても品位を失わない。結城暁のように。
泉がそばに近づくと、突然、強い吐き気がこみ上げてきた。
「もしかして、これが……つわり、なの?」
なんとかそれを抑え込み、泉は司瑛人に向き直った。「どうしてこんなに酔っているの?藤宮さんと一緒にいたはずじゃ……?」
「事情は知ってるってわけか」司瑛人は彼女を見据え、皮肉の色を隠そうともせずに言った。「自分の夫が他の女と夜を過ごそうとしてるってのに、君は平気でいられるのか?」
泉は両手をきつく握りしめ、深く息を吸い、そしてゆっくりと吐き出した。
努めて淡々とした声で答える。「私たちはもう、離婚することで合意しています。あとは離婚届を出すだけ……。彼は実質的に、もう自由の身です。私が彼をどうこう言う権利は、もうありません」
「はっ……」司瑛人は冷笑を浮かべた。「ずいぶんと、物分かりがいいんだな」
「泉さん、君には良心というものがないのか?この数年、暁が君をどれだけ大切にしてきたか。掌中の珠のように扱ってきたじゃないか。彼が離婚したいと言ったら、そのまま『はい、そうですか』って?少しは引き止めようと思わないのか?」司瑛人は声を荒らげた。
泉は少し驚いたように彼を見返した。「確か……私たちが結婚した時、あなたは猛反対していたはずですけど。今、私たちが別れることになって、一番喜んでいるのかと思っていましたわ。どうして、私よりも腹を立てているんですの?」
「それはそれ、これはこれだ。確かに、最初は君のことが気に入らなかった。だが、結婚した以上、お互いを大切にすべきだろう。結婚を子供の遊びみたいに扱うな。それに……」
彼は一瞬言葉を切り、意味ありげに続けた。「君の方が、藤宮清華より、彼にはずっと相応しい」
泉は運転手を呼び、二人で暁の体を支えて車に乗せた。
ところが、車を降りて家に入ろうとしたところで、思いがけず結城明彦(ゆうき あきひこ)に出くわした。
「お義父様、どうしてこちらに?」
明彦は、息子である暁に冷たい視線を向けた。「所帯を持ったというのに、分別もない。こんなに泥酔するなんて、なってないぞ」
泉はすぐに笑顔を作って取り繕った。「お義父様、暁のせいではありませんの。今日は、私たちの結婚記念日でして……。友人たちがお祝いをしてくれたのですが、皆が代わる代わる私にお酒を勧めるものですから、暁が心配して、全部代わりに引き受けてくださったんです。それで、一人で二倍飲むことになってしまって……」
それを聞いて、明彦の表情が少し和らいだ。「ふむ……それなら、まあ、仕方ないか」
彼は手にしていた包みを泉に手渡した。「これは、お爺様と私から、君たちへの結婚記念日の祝いの品だ。急用ができてしまってな、渡すのが遅くなった。気に入ってくれるといいが。そして、これからも二人で手を取り合って、末永く仲睦まじく過ごしてくれることを願っているよ」
「お爺様、お義父様、ありがとうございます。とても嬉しいです。覚えていてくださって……」
泉の感謝は心からのものだった。そして、本当に感動していた。
「開けてみないのかね?」と明彦が尋ねる。
「お爺様とお義父様から頂いたものですもの。何であっても、とても嬉しいですわ」
「君は本当に……純粋で、優しくて、情に脆い。だから、ことさら人に好かれるのだろうな」彼の視線が暁に移る。「もし、こいつが君をいじめるようなことがあったら、遠慮はいらん。いつでも私やお爺様に言いなさい。我々が味方になるから」
「ありがとうございます、お義父様。心に留めておきます」泉は満面の笑みを浮かべた。
「では、邪魔はこれくらいにしよう。早く休みなさい」
泉は暁を執事に預けた。「お義父様、お見送りしますわ」
「いや、いい。暁を世話するのも時間がかかるだろう。それが済んだら、君も早く休むんだ」
「はい。お義父様、お気をつけて」
ようやく暁を二階の寝室まで運び、風呂の湯を準備した。
泉が浴室から出ると、暁はすでに床の上に直接倒れ込んで眠ってしまっていた。
泉はふっと笑みを漏らした。彼も、いつも紳士的で優雅というわけではないのだな、と。時には、こんな風にだらしなくなることもあるのだ。
彼女は彼のそばにしゃがみ込み、指で軽くつついてみた。「暁さん、起きて。お風呂に入ってちょうだい」
「ほら、早く。起きないなら、もう知らないわよ」
反応はない。
泉はため息をつき、仕方なく暁の上着を一枚ずつ脱がせていく。
そして、彼を支えて浴室へ連れて行き、身体を洗ってやった。
ボディソープは濃厚なミルクの香り。これは泉自身が選んだ、彼女のお気に入りの香りだった。
だが今日、暁の身体を洗っている間、泉はその匂いにむせ返り、何度か吐き気を催した。
ようやく彼を洗い終え、ベッドに寝かせると、これでやっと一息つける、と泉は思った。
ところが、暁が突然くるりと寝返りを打ち、その両腕で泉の腰を抱きしめた。そして、低い声で囁く。「行かないでくれ……一緒に、寝てほしい」
泉の胸に、温かいものが込み上げてきた。心臓が、抑えきれずにドキドキと跳ねる。
その感覚は、初めて彼に出会った時のようだった。胸が高鳴り、心の中が甘く優しい気持ちで満たされていく。
普段の暁は、いつもすべてを見通しているような、優雅で落ち着いた佇まいなのに。こんな風に甘える姿なんて、見たことがなかった。
彼女の心は、ふわりと柔らかくなり、急に彼を突き放すことができなくなった。
「まあ、いいか……。これが、最後の夜になるのだから」
明日、離婚届を出してしまえば、もう二度とこうして同じベッドで眠ることもないのだ。
この夜を、自分にとって、最後の記憶にしよう。
「……ええ」
泉は小さく応えると、彼の腕の中に身を横たえ、二人を包むように布団を引き上げた。
眠りに落ちる前、その指先が、まるで絵筆のように、彼の眉を、鼻筋を、唇をそっとなぞった。
最後に、彼の手を取り、自分の指を絡めて、ぎゅっと握りしめた。
こんなことができるのも、彼が熟睡している時だけ。泉だけの、密やかな時間だった。
朝、泉は携帯電話の振動で目を覚ました。
まだ眠気が残っていて、ぼんやりとした頭で、手探りで携帯を掴み、耳に当てる。「……はい、もしもし」
「あ……あなたは、南雲さん?」電話の向こうから、女性の戸惑ったような声が聞こえた。
藤宮清華の声……!
間違えたのだ。これは、暁の携帯電話だった。
泉ははっとして、飛び起きた。
目を開け、素早く携帯の画面を確認すると、隣でまだ眠っている暁にそれを差し出した。「藤宮さんから、お電話です」