彼は空の星

その言葉を聞いて、真子は淡く微笑んだ。──子供の頃からずっと想っていた。けれど、あの人はまるで手の届かない、天上の星のような存在だったから。

「離婚したら、引っ越すんでしょ?どこか探すの手伝おうか?」

友人からの問いかけだ。

真子はため息をつき、気だるげに身体の向きを変えて、窓にすっかり凭れかかる。力なく言葉を紡いだ。「たぶん、母のところに行くと思う」

「真子……」

「ごめん、またね!」

視界の隅に、階下へ降りてくる人影を捉えた。銀色のバスローブだけを身にまとっている。まともに見る勇気もなく、真子は慌てて通話を切った。

疑いようもなく、その容姿は──家柄や背景を抜きにしても、否応なく目を惹くものだった。

子供の頃から、そのすらりとした体躯に憧れていた。けれど、彼が夢中になっているのは別の女性だった。

真子は彼よりいくつか年下だ。彼と結婚できたのは、両家の祖父同士の仲が良かったおかげであり、そして、彼が心を奪われているあの女性が、病を抱えていたという幸運にも恵まれたからだった。

藤原家にとって、子を産めない女性を嫁として受け入れることなど、到底あり得なかったのだ。だから、真子が藤原家に望まれる「妻」の候補となった。そして彼は詩織のため、真子と水面下で合意に至った。

自分は、名ばかりの妻。その代わりに、彼は高橋家の問題を解決し、母親の面倒を見てくれる。

そうして、三者三様、それぞれが望むものを手に入れたのだ。

「離婚協議書には、このマンションの所有権が譲渡されると明記してある」突然、声がかかった。

地価の高い都心の一等地にある、何十億円相当のオーシャンビューマンション。なんて気前のいいことだろう?

真子は笑みを浮かべて、「……詩織さんは、きっと喜ばないでしょうね」

「詩織さん」という言葉を聞いた瞬間、藤原月の目に冷たい光が宿ったのを、真子は見逃さなかった。だが次の瞬間には、彼はただ黙ってキッチンの方へ踵を返した。

腕時計に目を落とす。もう22時だ。

藤原月がワイングラスを手に戻ってきたところで、真子は口を開いた。「月さん、私はそろそろ……」

「一杯、付き合え」

「……」

「飲めないのか?」

「……」

真子は彼のそばへ歩み寄り、戸惑いながらもグラスを受け取った。

どうして、二十代の大人の女性が、お酒を飲めないなどと思うのだろう?

ゆっくりと一口含む。高級なワインは、やはり口当たりが良い。真子は従順な様子で、彼の傍らに佇む。

藤原月が真子を見つめる。「今年……二十……」

「二十三です」

結婚した年は、確かにまだ幼かった。

藤原月は頷き、上から下まで値踏みするように視線を滑らせる。相変わらず黒いパンツに長袖のシャツという出で立ちだったが、シャツは先ほどとは違う、上品な雰囲気のデザインに変わっていた。

彼も、真子の容姿が整っていることは承知しているはずだ。だが、その美しさは、時に目に痛いほどだったのかもしれない。

二人ともグラスを空にしたところで、真子は再び切り出した。「もう遅いですし、月さんの休息のお邪魔はできませんから」

「祖父の手の者が外にいる。今夜はどこへも行けない」

「……」

信じられない、というように真子が見つめると、藤原月は微かに笑って言った。「以前と同じように、ということだ」

彼がすでに階上へ向かっているのを見て、真子は思わず息を呑んだ。

以前と同じように、とは?

私がベッドで、彼がソファで?

普通に考えると、たとえ祖父の手の者が見張っていたとしても、この家は広いのだから、今いるこの大きなソファで眠ることだってできるはずだ。

「まさか、一度使ったベッドを、私がまた使うとでも思っているのか?」

真子の考えを見透かしたように、藤原月は階段の途中で立ち止まり、上から見下ろすようにして言い放った。

真子は……言葉を失った。

これが二人きりで過ごす最後の夜になるかもしれないと思うと、彼について行かない、という選択肢を選ぶことはできなかった。

季節は夏。寒くはない。

それぞれが横になると、本当にあの新婚の夜のようだった。

ただ……真夜中を過ぎた頃、闇の中、ベッドの傍らに立ち、彼女を見下ろすその傲然とした影は、いったい誰だったのだろうか。

——

藤原月にあらかじめ言い含められていたので、翌日の昼、スターライトで詩織と会った時、真子は落ち着いていた。

詩織は真子を見ると、笑顔でその手を取った。「会うのは何年ぶりかしら?すっかり素敵なレディになったわね!」

真子は微笑んで、「ええ」と頷く。

真子は、いわば幼い頃から彼らの後をついて回って育った。だが、一緒に育つというのは厄介なもので、いつまで経っても子供扱いされてしまう。

個室に入るや否や、まだ腰を下ろす間もなく詩織が尋ねてきた。「うちの真子ちゃんはこんなに綺麗なんだから、海外でも素敵な人にたくさん言い寄られたでしょう!」

「ええ。でも、私が好きなのは一人だけなんです」

真子は笑顔で答えた。

途端に、個室は水を打ったように静まり返った。

詩織と藤原月の表情が険しくなったのに気づき、真子はすぐに笑顔で続けた。「大学の、一つ上の先輩なんです!」

「あら!先輩ね。その方、優しいの?」

詩織は明らかに安堵した様子で、尋ねてきた。

その頃には、三人は席についていた。

藤原月の視線が、真子の顔に注がれている。真子はテーブルに置かれた専用のカトラリーに目を落としたまま、一言も間違えまいと慎重に言葉を選んだ。「…はい、とても。学校中の女子が憧れているような人だけど、『君が一番特別だ。君しか見ていない』って言ってくれるの!」

「素敵!きっと本当に真子のことを愛してくれているのね。大切にしなきゃ」

「はい」

真子は頷きながら、無意識のうちに斜め向かいの人物に視線を送った。

彼はもう料理を注文していたが、頼んでいるのは詩織が食べられるものばかりだった。

「月さん、私、あまり味がしなくて。だからって、真子ちゃんまで薄味に付き合わせるわけにはいかないわ」

詩織はそう言って、メニューを真子の方へ差し出すよう促した。

真子は微笑んで、「いえ、これで十分です。普段から、菜食なんです」

詩織と藤原月は、真子が菜食だと聞いて、意外そうにこちらを見た。

以前は、お肉がないと駄目だったのに。

「その後、菜食に変えたんです」

真子の言葉は本当だった。

海外へ渡った初日から、菜食に変えていた。

そうすることで、少しだけ心が安らぐような気がしたのだ。

「お母様、お加減が良くないんでしょう?今回の帰国は長くなるんでしょうね。彼氏さん、心配しないかしら?」

食事中、あまり箸が進まない詩織は、それでも真子のことを気遣って尋ね続けた。

「今は交通の便もいいし、会いたくなったら、すぐに会いに行けばいいですから」

真子はそう答える。

「うん、それはそうね。でも真子……もう結婚していたことを、その彼に伝えてるの?」

詩織の質問は途切れない。

その言葉を聞いて、真子は思わず藤原月に目を向けた。藤原月は黒い瞳でじっとこちらを見つめている。

「離婚してから、話そうと思っています」

真子は俯き、自分の皿に取り分けながら答えた。

「それがいいわね。心配することなんてないわ。いざとなったら、私と月さんが直接行って、事情を説明してあげるから。それに……」

詩織は不意に言葉を切った。

真子は不思議に思って顔を上げる。

詩織は突然、悪戯っぽく笑った。「初めての時、あなたが純粋で真面目な子だって、きっとわかってくれたはずよ!」

「……」

どうしてそんな際どい話になるのか、真子には理解できなかった。まだ若すぎて、そんな話題にはついていけない。

藤原月が詩織の皿に料理を取り分けた。「少し食べなさい」

詩織は、彼のその甲斐甲斐しい様子を見て、また話しかける。「毎日、あなたにこんな風に世話をさせて、申し訳ないわ。実は考えたの。もし私がいなくなったら、代わりに真子ちゃんがあなたの面倒を見てくれたら、どんなにいいかって……」

「詩織!」

藤原月は箸を置いて、彼女を制した。

「わかってる、わかってるわ、嫌なんでしょう。それに、そんなことしたら真子ちゃんに申し訳ないってことも。私が、こんな身体だから……!」

詩織は突然、ぽろぽろと涙を流し、ひとりで泣き出してしまった。

「まるで悲劇のヒロインね」

真子はそれ以上何も言わず、俯いて、ただ黙々と自分の皿のご飯を口に運んだ。

この食事会は、詩織の自分に対する懸念を打ち消すためのもの──真子は藤原月の意図をはっきりと理解していた。辛抱強く相手をし、1時間ほどの食事時間は、長く感じたものの、どうにかやり過ごすことができた。

詩織は末期癌なのだ。食後、藤原月は彼女を連れてすぐに席を立つことになった。詩織はまだ真子のことを気にしている。「真子ちゃん、月さんに送ってもらったらどう?」

「いえ、大丈夫です。これから別のところへ行くので。月さんと二人のお邪魔はしませんから!」

真子はそう言って、二人に手を振った。

「私のことは詩織さんって呼ぶんだから、月さんのことも……お義兄さんって呼びなさいよ!」

「……」

真子は一瞬固まり、思わず藤原月を見た。

藤原月は眉をわずかに顰め、黙って真子を見つめ返す。

真子は仕方なく、気まずさを隠しながらも、彼女をがっかりさせないように、かろうじて呼びかけた。「お、お義姉さん、……お義兄さん……!」