未だ署名されぬ離婚届

真子は胸が締め付けられる。しばしの沈黙の後、ようやく絞り出すように言葉を紡いだ。「ち、違います…!」

ただ、早く決着をつけたかっただけなのだ。

実のところ、急いでいるのは真子だけではない。詩織だって、何度もなく催促してくるではないか。

彼自身、自分がどうしてしまったのか分からずにいるようだ。

夫婦としての実態などない。結婚する時にはっきりと取り決めたのだから、離婚する時だって、潔くあるべきだ。

それなのに、藤原月は未だにあの離婚協議書にサインをしていない。

真子は彼の顔をまともに見られなかった。彼が近づけば近づくほど、無意識に俯いてしまう。

藤原月はイライラした様子で真子を見た。「最近、少し立て込んでいてな。数日、待ってくれ。……いいな?」

その口調は、彼が不機嫌であることを示していた。真子は頷くだけで、もう何も言えなかった。

再び風が吹き、彼女のスカートの裾が彼のスーツのズボンを掠めた。

藤原月は反射的に眉を顰め、真子はさらに慌ててスカートの裾を押さえた。「すみません!」

彼女の過剰な緊張ぶりに気づき、藤原月はさらに眉間の皺を深くした。何も言わずに踵を返し、車に乗り込む。

彼が去ったのを見届けてから、真子はそっと安堵の息をついた。早く、この離婚を終わらせたい。

そうすれば、もう、自分の心を抑えきれなくなる心配をしなくても済むのだろうか?

ほどなくして、病院から電話があった。電話を受けると、お祖母様がすぐに運転手を寄越してくれた。

母親は鎮痛剤を打たれ、真子が病室に着いた時には、すでにベッドで眠っていた。

わずか3年。ここを発つ時、母親は痩せてはいたけれど、少なくとも50キロはあったはずだ。

なのに、今は……

病は人を痩せ衰えさせる。そして、がんという病は、人を原型すら留めないほどに蝕んでいく。

もしかしたら、もう40キロもないかもしれない。

真子はベッドの傍らに座り、医師から告げられた言葉を思い出していた。

「いつ、その時が来てもいいように、心の準備をしておいてください」

「……」

真子の目に涙が光ったが、その一粒が決して零れ落ちることはなかった。

そう、泣かない。

お母様はまだ生きている。何を泣くことがあるというの?

3年前の胃がんだって、治ったじゃないか。

きっと奇跡は起きる。今の医学はこんなに進歩しているのだから。

癌を克服した例だって見たことがある。それも、「たくさん」。

「……娘や」

やがて、ベッドの上の人が目を覚まし、弱々しい声で呼びかけた。

「お母様、気がついたのですね!」

真子はその手を握り、顔を近づけて、母親が自分をよく見えるようにした。

「怖がることはないよ。誰だって、最後は死ぬんだからね」

「お母様っ!」

真子はそれ以外の言葉が出てこず、ただ、母親の手を強く握りしめた。

「私の可愛い娘……。あなたが幸せに生きてくれれば、母さんも安心して逝けるんだよ」

「お母様……」

そんな話は聞きたくない。

これからの人生、この世界に、たった一人で取り残されたくはないのだ。

「正直に教えておくれ。あの子……月さんから、離婚の話があったんだろう?」

「……はい」

もう隠し通せないと悟り、真子は腰を下ろし、母親と向き合って正直に話すことにした。

「……そうかい。まあ、それもいいのかもしれないね。私の自慢の娘が、こんなに良い子なんだもの。あの子を大切にしてくれる人が見つからないわけがないじゃないか。離婚するなんて、あの子の損だよ」

高橋お母さんは娘の頬を撫でながら言った。

真子は微笑んでみせた。「もちろんです!」

「そうそう、それでいいんだよ。どんな時だって、明るく前を向いていなくちゃね。いいかい?」

高橋お母さんは娘を慰める。

「はい!」

真子は素直に頷いた。けれど、心の中では分かっていた。この世の中に、そんな風に明るく向き合えることばかりではないのだと。

たとえば、父親がビルから身を投げたこと。たとえば、愛してはいけない人を愛してしまったこと。たとえば、母親までもが自分のもとを去ろうとしていること。

祖父母も、母方の祖父母も、もうとっくにいない。いわゆる親戚と呼べる人たちも、両親の離婚後は疎遠になってしまった。

その後、高橋お母さんはまた眠りに落ちた。真子はずっとそばに付き添っていた。

たとえ痛みに苛まれる日々が続くとしても、母にもう少しだけ長く生きてほしい──そんな自己中心的な願いさえ、頭をもたげる。

この先、一人きりになってしまうことが、怖くてたまらなかった。

真子は、母親のベッドの傍らで眠ってしまった。

まさか、翌朝、目覚めてすぐに藤原月の姿を目にするとは思ってもみなかった。

すでにスタッフが流動食を病室に運び込んでおり、高橋お母さんは「二人で外で話しておいで」と彼らを促し、一人でスープを飲んでいる。

「昨夜は、怖かったか?」

藤原月が尋ねてきた。

彼は真子より5歳年上だ。その問いかける口調も、まるで兄のようだった。

真子は微笑んだ。「私がそんなに臆病に見えます?」

「次からは、私を呼べばいい」

「…私たちは、もうすぐ離婚するんですよ」

「君が小さい頃から、ずっと見てきたんだ、真子……」

「詩織さんが、良く思いません。あの方もお身体が良くないのですから、心配をかけるようなことはしたくありません」

真子はそう言って、病室の中を窺った。

藤原月は目を細めた。「……随分と物分かりがいいんだな。だが、詩織だって君のお母様の手料理を食べたことがある。私が見て見ぬふりをするのを、彼女だって望まないだろう」

「……では、お母様の面倒を見てくださるのは、詩織さんのため、なのですか?」

「法律上、君は私の妻だ。君の家族は、私の家族でもある」

「でも、もうすぐそうではなくなります」

その答えに、真子は胸を打たれたが、事実として、二人の関係は間もなく終わるのだ。

藤原月は廊下の奥に視線を向けた。看護師が歩いてくる。彼は壁際に少し身を寄せた。

真子は壁に背を預けて立っていたが、突然、目の前が影になった。

彼が、すぐ間近で見下ろしていた。「これからも、そうだ」

真子は顔を上げた。澄んだ瞳で彼を見つめる。

本当に、目が眩むほど、整った顔立ちをしている。

二人の間には、ほんのわずかな隙間しかない。彼の鼻腔をくすぐる彼女の香水の香り。「……長年、同じものを使っているのか?」

「……慣れているものですから」

真子は一瞬、虚を突かれたが、すぐに自分でもその香りに気づいた。

「この瞬間から、もう、やめよう」心の中で決意する。

藤原月は小さく息をついただけで、それ以上何も言わなかった。

しばらくして、病室の中から二人を呼ぶ声がした。真子は言った。「もう、行ってください。大丈夫ですから」

「それは失礼だろう」

藤原月はそう言うと、先に病室の中へ入っていった。

真子は内心、彼にこれ以上母親に会ってほしくなかった。彼が母親に対して、これ以上、心にもない態度を取るのを見ていたくなかったのだ。

終わる関係なら、すべてを終わらせるべきだ。

別れたら、もう二度と会わない──誰かが言ったその言葉が、妙に腑に落ちた。

「二人が離婚したら、それぞれ別の道を歩むことになる。真子ちゃんはあなたを祝福するだろうし、君も真子ちゃんを祝福してあげられるでしょう?」

高橋お母さんは藤原月を見つめ、その瞳にはまだ鋭い光が宿っていた。

「……もちろんです」

藤原月は、自分の隣に歩み寄って立った少女を見つめ、心中は複雑な思いで満たされていた。

「それなら良かった。この子は、あなたのそばで育ったようなものだ。私がいなくなっても、この子を困らせないでおくれ。もちろん……母親としては、娘が困った時に、あなたが手を差し伸べてくれることを願っているけれどね」

高橋お母さんは続けた。

「お母様!何を言ってるんですか!」

真子は突然、語気を強めた。まるで、後のことを託しているような口ぶりに聞こえたからだ。

「言ったでしょう。生と死は、誰にでもあることなんだよ。もっと冷静になりなさい。でなければ、母さんがいなくなったら、一人でどうするんだい?」

高橋お母さんは心配していた。自分の娘が、この試練を乗り越えられないのではないかと。だから、わざわざ藤原月の前でこう言ったのだ。

しかし、真子の目には涙が溢れ、頑なに言い返した。「……お母様は、どこへも行かない!」

「私だって行きたくはないさ。でも、神様が許してくれないんだよ。二度もがんになるなんてね。一度目は幸運にも乗り越えられたけど、今回は……」

高橋お母さんは、骨と皮だけになった自分の手を見つめ、自身の命が、もうすぐ尽きようとしていることを悟っていた。

「……ご心配なく。いつだって、私たちは家族です。私が、真子を支えます」

藤原月が、不意に真子の手を握った。

真子の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。俯いて、彼に握られた自分の手を見つめる。

彼の掌は、やはり、温かい。