桜井蓮が病室を出たとき、疲れの色が隠せなかった。
藤丸詩織といた頃は、いつも彼女が甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたものだ。時には何も言わずとも、視線一つで欲しいものを察して差し出してくれた。
先ほど病室で頭痛がしたとき、マッサージをしてくれる人もいなかった。それどころか、水野月奈の世話までしなければならなかった。そう考えると、桜井蓮の頭痛はさらにひどくなった。
自分が何を考えているのかに気づき、桜井蓮は慌てて首を振った。頭の中の考えを振り払おうとして!
なぜまた藤丸詩織のことを考えているのか理解できなかった。しかも、自分の心の中で最も輝かしい存在である水野月奈と比べてまで!
スラム街育ちの女が、月奈と比肩しようなんて、おこがましいにもほどがある。
相良健司(さがら けんじ)は桜井蓮の様子にぎょっとしつつも、近づくべきか一瞬ためらった。
しかし、報告すべき事の重大さを思い、意を決して歩み寄り、小声で呼びかける。「桜井社長」
「相良秘書、どうした?」相良健司の声に気づき、桜井蓮は一瞬動きを止め、すぐにいつもの冷淡な表情を取り繕った。
「桜井社長、たった今入った情報ですが…三年前にクルーズ船事故に遭われた藤丸家のお嬢様が、生きて戻られた、とのことです」と、相良健司が報告した。
三年前のクルーザー爆発事故は、誰もが知る大事件だった。特に藤丸グループの令嬢も乗船していたことから、なおさらだった。それが今、生還したというのだ。
「死人が生き返った、か。面白い」桜井蓮はそう呟くと、ふっと顔を上げ、漆黒の夜空を見上げた。「藤丸家も、これで風向きが変わるな」
「桜井社長、藤丸グループとの提携プロジェクトは、今後どうなさいますか?」相良健司は言いながら、手にした関連資料を桜井蓮に差し出した。
桜井家と藤丸グループの提携案件は百件近くあった。しかし、これらは全て藤丸前社長、つまり藤丸家のお嬢様の父親が在任中に締結されたもので、当時は前途有望だった。
しかし、事故後に藤丸明彦が会社を引き継いでからの数年間、表面上は繁栄しているように見えても、内実は既に傾いていた。桜井蓮は今期の提携が終わり次第、終了するつもりだったが、今回の出来事で状況が変わった。
桜井蓮はしばし考え込んだ後、口を開いた。「状況をもう少し見守る。どう転ぶか、それからだ」
「承知いたしました」
桜井蓮は資料に目を落としながら、不意に何かを思い出したように顔を上げ、相良に尋ねた。「以前、XYに送ったネットワーク事業提携の打診メールだが、返信はあったか?」
「いえ、まだです」その質問には、相良健司も慣れたものだった。ほぼ毎月一度は、桜井社長から同じことを尋ねられるのだ。
「再送しろ。多忙でメールが埋もれたのかもしれん」桜井蓮はこともなげに言った。
そう言うと、桜井蓮は少し間を置いて続けた。「他に報告は?」
相良健司は桜井蓮の突然の質問に戸惑った。というのも、もう報告することは何もなかったからだ。
しかし、そう言おうとした時、桜井蓮の冷淡な眼差しに触れ、相良健司はふと思いついた。
すぐさま相良健司は報告を始めた。「は、はい、一つ…奥様の件ですが…」
その言葉を聞くなり、桜井蓮は最後まで聞かずに鼻で笑うように言葉を遮った。「あの女、サインした後にやはり後悔したか?書類を香月弁護士に渡すのを渋っているんだろう?俺の前であんなに潔かったのは、やはり見栄を張っていただけか!」
桜井蓮の言葉とともに、相良健司の顔色はどんどん青ざめていった。
これから言わなければならない言葉で、桜井社長に恨まれるのではないかと恐れていたからだ……
言いたくない。しかし、報告しないわけにはいかない。相良健司は意を決して、か細い声で告げた。「いえ、社長、そうではなく…香月弁護士によりますと、奥様は非常に快く書類をお渡しになった、と。このままいけば、明日にも正式に離婚が成立する見込みです」
相良健司は後半になるにつれて声が小さくなっていった。というのも、桜井蓮の表情がどんどん暗くなっていくのが見えたからだ。
桜井蓮は心中で非常に不愉快だった。藤丸詩織があの女が、自分に対して本当に何の未練も持っていないとは思えなかった。
そんなはずはない!きっと彼女は、この特別な方法で自分の注意を引こうとしているのだ!
ふん、藤丸詩織はやはり相変わらず計算高い女だ。
そう考えが及んだ後、桜井蓮は冷たい声で言った。「明日の離婚手続きの場でも、その威勢を保てるものか、見物だな」
相良健司はこの時、地面に穴があれば今すぐ潜り込みたいと思った。なにせ桜井社長のこれほどのプライベートな話まで知ってしまったのだ。明日、左足から会社に入ったというだけで解雇されるのではないかと恐れていた。