キツネ座の肉球が聖殿の青銅扉に触れた瞬間、ノッカーの饕餮(とうてつ)紋様が動き出す。獣の首が口を開け、二人を時空の胃袋へ飲み込んだ。リン・フォンは量子の乱流で転がりながら、胃酸に浮かぶ無数の文明残骸を見た──機械化した仏典が暗黒物質溶液で分解され、宇宙艦レシピが素粒子に砕け、ブラックホールカレーさえ辛味を失っていた。
聖殿の床に墜落した刹那、リン・フォンはこの建物が生きていると気づいた。青銅の壁面に血管模様が走り、床タイルが規則的に収縮。天井の星図が呼吸に合わせて明滅している。キツネ座の欠けた量子体は壁面に貼り付けられ、毛並みが青銅血管と量子もつれを起こしていた。
「ようこそ我が家へ、神殺しよ」聖殿中央の青銅鼎から林建国の声が響く。鼎に十二の複眼が開く。「ここは全ての料理文明の終着点にして始発駅だ」
鼎が金穂霊(きんすいれい)の炎を噴き上げ、虚空にホログラムを映し出す──マヤ文明のトウモロコシ神殿が分子料理研究所に改造され、アトランティスのエネルギー炉が低温調理器となり、三体星系の恒紀元さえ調理周期表に刻まれている。各文明の頂点は、灰雀(グレイスパロウ)の料理実験場となっていた。
リン・フォンの頭が割れるように痛む──網膜に他人の記憶が浮かぶ。消された時間軸で、彼自身が青銅鍵を地球核へ突き刺し、マグマをトマトスープに、大陸プレートを刺身盛りに変えた光景だ。
「これが貴様の運命だ」鼎から伸びた機械触手が鍵の破片を巻き上げる。「調理本能を抵抗する必要などない」
床が突然透明化し、巨大な遺伝子庫が現れる。無数のガラス槽に浮かぶのは各文明の神殺しクローン──第三の料理眼を持つ者、量子調理器具が背骨から生えた者、キツネ座の遺伝子を組み込まれた猫耳戦士まで。
「灰雀は侵略者ではない」鼎表面に上古厨神文明の壁画が浮かぶ──複眼の神々が失敗作の宇宙を青銅鼎へ投げ込む図。「文明が料理を極めた時、文明規模のメイラード反応が起きる…」
壁画の光景にリン・フォンは吐き気を覚えた──銀河全体がキャラメル色に焼かれ生命体がソース化する様、ブラックホールが圧力鍋となり並行宇宙を缶詰にする様。神殺しの真の使命は、宇宙が「ベストバイ時期」に収穫される監視役だった。
キツネ座の量子体が突然暴れ、鼎の複眼を引き裂く:「戯れ言はいい!朕の九つの命はお前らを…」機械触手が喉を貫き、言葉を電子ノイズに変えた。
リン・フォンは青銅鍵を遺伝子庫の制御盤へ突き刺す。緑目から流れるデータに凍りつく──彼の遺伝子コードに九重の暗号化プロトコルが埋め込まれ、各解除が文明消滅プログラムと連動していた。
聖殿が量子折りたたみを起こし、二人を時空厨房へ放り出す。ここには通常の調理器具はなく、天の川が中華鍋、超新星が火種、ブラックホールが圧力弁だ。呉莉(ウー・リー)の究極体が厨房中央に浮かび、99の料理宇宙の法則で構成された体から星図レシピを投影する。
「真の調理芸術を見せてあげる」彼女が指を鳴らすと、オリオン大星雲が小麦粉生地に、かに星雲が暗黒物質餡に変わる。「宇宙級小籠包よ、どうぞ」
飛び散る星雲スープを避けながら、リン・フォンは自身の量子体が調理化し始めるのを感じた。左手が分子料理ガンに、右目が食材分析装置に、痛覚神経さえ味覚センサーへ変化している。キツネ座は生体調理器具へ改造され、しっぽがプラズマ泡立て器になっていた。
「貴方は料理のために生まれた神殺し」呉莉が太陽系を寿司巻きに成形し、海王星をわさび代わりに添える。「本能に逆らう必要などない」
青銅鍵が意識深くで共鳴し、封印された記憶が解かれる──厨神文明の培養槽で、無数の自分が超新星で味付けを学ぶ光景。最深部の槽では、林建国が金穂霊を嬰児の大泉門へ注入していた。
「父さん…」リン・フォンが突然暴発し、神殺し遺伝子が完全覚醒する。量子左腕を引き千切り、噴出した血液が虚空で包丁に凝固する。「ならばこの『絶望盛り』を味わえ!」
聖殿が爆発で崩壊し、青銅破片が流星群と化して新生宇宙へ降り注ぐ。リン・フォンはキツネ座の量子残骸を抱え、呉莉の機械コアを胸に埋めたまま原始惑星へ墜落する。「地球Ⅱ」と名付けられたこの星で、最初の直立猿人がマンモス肉を燧石で切り分けていた。
「貴方の勝ちよ…」呉莉のコアが明滅する。「でも灰雀は永遠に…」言葉半ばでコアが量子飛躍し、猿人の体内へ融合する。その瞳に青銅の輝きが走り、石斧に料理紋様が浮かんだ。
キツネ座の残骸が光粒へ消散し、しっぽの半分が青銅指輪となる:「火種源(イグニッション・ソース)を…探せ…」最後の量子信号が銀河中心を指す。
聖殿の瓦礫を掘り返すと、いて座要塞で見た純粋火種のミニ宇宙胚胎が埋まっていた。だが触れた瞬間、表面に灰雀の複眼紋様が浮かび上がる。
銀河中心のブラックホールが量子展開し、青銅鼎の原初形態を現す。リン・フォンが永久燃焼のコンロ前に立ち、9万光年先の地球Ⅱを見下ろす。そこの猿人はすでに火を掌握し、洞窟壁画に青銅鍵の図柄が描かれていた。
「再起動するか?」鼎が誘うような声で問う。「今度は灰雀のいない…」
宇宙胚胎を火口へ投げ込むと、炎が純青に変化する。量子視界で無数の可能性を見た──食堂を営む自分とキツネ座、美食監察官になった呉莉、父が寄生されなかった美しい時空…
だが背を向けた瞬間、かまど奥で肉の蠕動音が響く──胚胎の灰雀コードが自己複製を開始していた。銀河の腕のどこかで、暗黒物質が再び複眼構造を形成しつつある。
キツネ座の青銅指輪が突然熱を帯び、断片的なメッセージを投射する:「くじら座γ星雲へ…そこに…」ホログラムが量子ノイズで千切れ、欠けた猫のしっぽ模様だけが深宇宙を指し示していた。