第19章 淵墟の眼と終極の饗宴‌

リン・フォンの網膜に、淵墟の眼の紋様が生きたように広がる。くじら座γ星雲の暗黒物質の帳を透かし、彼はこの恐るべき存在の全貌を把握した──これは通常の生物ではなく、無数の料理済み宇宙のエントロピー増大過程が具現化した概念実体だった。「瞳」と見える部分は11次元が折り畳まれた複合特異点で、各次元の皺に数億の未調理文明残骸が浮遊している。それらは分解と再構成を繰り返し、永遠の調理輪廻で無言の慟哭をあげていた。

「灰雀など子供じみた存在だ…」キツネ座の声は九幽の底から響く。通常は柔らかな量子毛が鋼針のように逆立ち、三本の尾は重力波検出アレイと化して激しく閃光を放つ。

「九十九の並行宇宙の記憶にもこんな形態は…」猫神の声は稀に見る震えを帯びていた。その言葉が途切れた瞬間、リン・フォンの頭蓋を劈く痛みが走る。青銅指輪が翠緑の閃光を放ち、ビッグバン前の混沌の記憶が解凍された──量子泡踊る虚空中、淵墟の眼が原始ブラックホールを麺棒代わりに未成型宇宙を餃子の皮のように延ばす図。彼らが戦ってきた灰雀は、この存在が零した一粒の胡麻が進化したに過ぎなかった。

「次元皺を直視するな!」キツネ座が尾でリン・フォンの目を覆う。だが遅く、左眼の虹彩には淵墟の眼と同じ複眼紋様が浮かび上がる。食材の量子状態が見え、時空の塩梅が味わえ、暗黒エネルギーの「香り」まで感知できる異形の視覚だ。

星雲の障壁を突破した時、防護服のシステムが完全に停止した。眼前の光景は物理法則を嘲笑う料理地獄──天の川銀河が暗黒物質まな板で刺身薄造りに、おとめ座超銀河団が量子鍋で出汁炊きに。螺旋星雲は泡立て器、クエーサーは電子レンジに改造され、暗黒エネルギーさえ調味料として精製されていた。

「終極の試食会へようこそ、尊い食材様」呉莉の金属音声が四方から響く。彼女の機械身体は超次元厨房と同化し、背骨から伸びたデータケーブルが淵墟の眼の神経末端に直結している。「シェフは永遠の退屈を破る新たな味覚を求めておいでです」

リン・フォンの身体が制御不能に調理化し始める。左手の指先で時空の塩辛さを感知し、右眼の視覚情報が舌面で味覚に変換される。キツネ座は量子毛が食用繊維に変異し、吐息が黒胡椒風味の暗黒物質粒子を放出していた。

厨房中央の次元裂け目から、圧縮銀河で構成された腕が出現。毛孔一つ一つが調理中のミニ宇宙で、オリオン腕を塩撒きのように振りかける。恒星が皮膚に触れた瞬間、六歳の誕生日ケーキの甘味、倉庫の黴臭、父の実験室の半田ごての匂いが舌に広がった。

淵墟の眼が下した最終試練──12分以内に林雨(リン・ユイ)の分散した遺伝子コードから「感動を与える料理」を創造せよ。カウントダウン開始と同時に、リン・フォンは記憶で構成された異形の食材庫へ投げ込まれる。誕生日ケーキのクリームは反物質泡、父の謎の試薬は液状時間、家門の梧桐の木は圧縮並行宇宙で形成されていた。

「これは罠だ!」キツネ座が記憶障壁を引き裂き、恐怖の真実を露わにする。あらゆる食材は圧縮宇宙そのもので、林雨の意識は九千万の時間軸に分散されている。淵墟の眼はこれらの接続を通じ、汚染されていない宇宙を吸い飲みのように喰い漁っていた。

閃光が脳裏を走る。灰雀の真の役割が理解できた──彼らは「神殺し」を誘き寄せる餌。クローン体も、料理された文明も、青銅鼎さえ、全ては食材を最良の「風味」に育成する前処理に過ぎなかった。

絶望の中で、奇妙な事実に気づく──淵墟の眼が特定の記憶を忌避している。焦げた目玉焼き、塩辛すぎるスープ、カビたパン…普通の調理失敗の記憶に、この至高存在が困惑しているように見えた。

「分かった…」リン・フォンが震える手で青銅指輪を握りしめる。キツネ座の量子残滓が耳元で囁く:「お前の『失敗』こそが…」

突然、厨房全体が激震に襲われる。淵墟の眼の虹彩に亀裂が入り、11次元構造が不安定に震え始めた。リン・フォンは自らの左眼を貫き、調理失敗の記憶を量子結晶化──焦げた目玉焼きの苦味、塩過多のスープの渇き、腐敗パンの酸味を次元皺に注入する。

「これが…人間の『不完全』だ!」

淵墟の眼が発した悲鳴は時空構造そのものを歪ませた。完全性を追求するこの存在にとって、矛盾した味覚情報は劇毒だった。11次元構造が雪崩を起こし、周囲の調理宇宙が次々と解放されていく。

「今だ!」キツネ座の残滓が最後の量子跳躍を実行。青銅指輪が銀河中心の永燃星炬と共鳴し、解放された火種が暗黒物質の帳を焼き払う。淵墟の眼の崩壊する瞳孔から、無数の純粋宇宙が雛鳥のように飛び立っていった。

地球Ⅱの洞窟壁画が突然変化する。少年が描いた青銅鍵の図柄が、焦げたフライパンと笑顔の家族の絵に書き換わっていた。銀河中心では、灰雀コードを含む宇宙胚胎が新たな目覚めを待ちつつ──

「終わりではない」リン・フォンが新生宇宙群を見上げながら呟く。胸の傷口から滲む金穂霊が、彼の遺伝子コードを静かに書き換えていた。

淵墟の眼の残骸が銀河間空間で再結晶を始める。次元の裂け目から、より巨大な存在の影が覗いた瞬間──

キツネ座の声が量子風に乗って響く:「次の缶詰の準備は…終わっているか?」