吐く息の白さがまだ春の浅さを告げる頃。もうすぐ年が明けるからだろうか、瑞穂市の街全体がどこか浮き立つような賑わいを見せていた。容赦なく吹きつける寒風も、人々の熱気を冷ますには至らないらしい。
夕闇が迫る空からは、いつしか霧雨がしとしとと降り始めていた。喧騒に包まれたこの街にも、どこかひっそりとした静寂が忍び寄ってくるかのようだ。
黒塗りのフォルクスワーゲン・パサートが一台、瑞穂市の北城区にある高層ビルの地下駐車場を滑り出てきた。長く広い目抜き通りを抜け、中央区へと真っ直ぐに向かっていく。
夜の街路はどこか寒々として、霧雨に煙る街灯の光も心なしか頼りなげに滲んでいた。
運転席には星野夏子(ほしの なつこ)が座り、片手でしっかりとハンドルを操作し、もう片方の肘は全開にした窓枠にかけている。容赦なく吹き込んでくる冷たい風が、肩まで流れる艶やかな黒髪を気まぐれに弄び、ささやかな乱れを作っていた。
インナーには黒いシャツと黒いパンツ、その上に羽織ったローズレッドのトレンチコートが鮮やかに対照を描く。足元はいつも通りの黒いハイヒール。これが、星野夏子の定番とも言える装いだ。元来、彼女のワードローブは極端に少ない。面白みのない黒のビジネススーツを年中纏っているせいか、それ以外の私服は数えるほどしか持っていなかった。
……
瑞穂市中央区に佇む清風料亭は、宵の口にもかかわらず多くの客で賑わいを見せていた。
星野夏子は、どこか毅然とした、それでいて軽やかな足取りで店内へと進む。涼やかな目元で店内をさらりと見渡すと、やがてその鋭い視線が、ある一隅のテーブルに向けられた。
そこへ歩みを進めると、既に席に着いて待っていたらしい男が、手にしていたスマートフォンからふと顔を上げ、星野夏子の方を見た。星野夏子の姿をはっきりと捉えた瞬間、その瞳の奥に、一瞬だけ強い光が揺らめいた気がした。
「大野弘(おおの ひろし)さん、でいらっしゃいますか?」
凛とした、それでいて微かに掠れた声が響く。星野夏子の、古井戸の水面のように静かな瞳が、目の前の男を一瞥した。
男は三十代半ばといったところか。当たり前のスーツを纏い、顔立ちは平凡で、お世辞にも端正とは言えない。夏子に気づくと、どこか取ってつけたような笑みを浮かべたが、その笑顔が、どうにも夏子の目には不快な棘のように映った。
男は頷き、慌てたように立ち上がった。「は、はい、大野です。星野夏子さん……でいらっしゃいますね?」
星野夏子は短く肯首すると、彼の向かいの椅子を引き、静かに腰を下ろした。「お待たせして申し訳ありません」
大野も席に着くと、声の調子にどこか傲慢な響きを滲ませながら言った。「まさか、女性を待つのは男の甲斐性というものです。……まあ、次がなければ、の話ですがね。こっちのことは星野さんもご存知でしょうが、そっちのことはまだ詳しく伺っていませんので、まずは自己紹介からお願いできますか」
星野夏子は淡々と頷いた。「ええ。ですが、まずは注文を」
そう言って、ウェイターを呼ぶために手を挙げた。
「星野夏子です。清川グループに勤務しております。今年で26になります」
星野夏子は手にはめていた黒い革の手袋を静かに外すと、傍らの空いた席に無造作に置き、そう告げた。
「ええ……松尾おばさんから伺っています。以前、防大の公共政策学部にいらっしゃったとか」
大野弘は何かを思い出したようにそう言うと、言葉を切り、星野夏子の顔をじっと見つめた。しばしの沈黙の後、再び口を開く。「正直なところ、俺も自衛官でしたが、同じような立場の女性を相手にしたいとは思っていません。もっとも、そっちの場合、今の職業はまあ、悪くないが。やはり女性というものは、家庭を守り、夫を支え、子を育てるべきだと思いませんか?」
その言葉を聞いた瞬間、星野夏子の瞳の奥に、鋭く冷ややかな光がきらりと閃いた。しかし、表情は一切変えることなく、目の前で得意気に語る男を冷めた目で見据えるだけで、何も答えようとはしなかった。
「これまでの恋愛経験は?……その、まさかとは思うが、未経験者だったりするのかね?」
男はさらにそう問いかけたが、そこに悪びれる様子は微塵も感じられない。
その直接的な言葉に、星野夏子は思わず眉をひそめ、隠しようのない不快感が胸に広がるのを感じた。
「その様子だと、図星かな。俺はね、単純な女と恋愛するつもりはないんですよ。人生経験が浅いと、自分が本当に何を欲しているのか分かっていないことが多い。それに、誘惑にも弱く、一途に添い遂げるなんて難しい。結婚してから裏切られるくらいなら、最初から経験ある女性を選んだ方がいい」
大野弘野は淀みなく語り、まるで多くの修羅場を潜り抜けてきたかのような口ぶりだった。
「俺は現実主義者でね。多くのことを経験してきた。男ができることは一通りやったし、経験できることも、まあ、ほとんど経験した。だからこそ、残りの人生を共にするなら、酸いも甘いも噛み分けた女性がいい。そっちのような純粋なタイプとは、深い付き合いをするつもりはない。できないのではなく、不釣り合いなんだ。純粋な女というのは、えてして不安定だからね」
星野夏子が黙っているのを見て、大野弘はさらに続けた。
「どうして、乙女でなければ立派な大人だと言い切れるのですか?純粋な女性は経験がなくて誘惑に弱いなどという理屈は、一体どこからお持ちになったのでしょう?」
しばしの後、星野夏子は唇の端に冷ややかな笑みを浮かべ、静かにそう言い放った。「その考えは、少々偏り過ぎているようですわね」
「では、はっきり言わせてもらうが、この俺、一夜限りの関係も楽しんできたし、今も愛人がいる。そんな男を、夫として受け入れられるのか?」
大野弘はふんぞり返って星野夏子を見つめ、まるでそんな自分を誇っているかのようだった。
「結婚とは、一体何なんですの?」
星野夏子は静かに問い返した。
「責任、そして忠誠と信頼だ」
「では……今までの言葉はどういう意味でしょう?ご自分がどれほどおモテになるかを、自慢していらっしゃるのかしら?その忠誠とか信頼とか、一夜限りの遊びや愛人を囲いながら、他の女性とお見合いをすることだと?……大野さん、率直に申し上げますが、あなたはまさしく自衛隊の鑑ですわね。後日、上官の方に、表彰状と記念品の授与をお願いしておくべきかしら」
星野夏子の言葉は、早春の湖面を覆う薄氷のように、冷たく鋭く相手に突き刺さる。
「だから言ってるだろ。純粋な女はダメなんだ。見た目は清純でも、実際は安定感がない。一途でなんかいられない」
大野弘は頑なに繰り返していた。しかし、星野夏子は、その瞳の奥に一瞬よぎった暗い光を見逃さなかった。
「でしたら、どうぞごゆっくりと、社会経験豊富な女性をお探しになればよろしいのではなくて?」
星野夏子は、その愚痴を馬耳東風、唇に冷ややかな笑みを浮かべた。ちょうどその時、注文した料理が運ばれてくる。夏子は少しも臆することなく箸を取り、まるで目の前の男など存在しないかのように食事を始めた。
「星野さん、もしや怒りですか?先程の言葉にも一理あることは認めます。ですが、これが世の常というものです。これまでの経験が教えてくれましたよ。純粋な女に限って、ろくなものがいない、とね」
「大野さん。今更、そのようなご説明は不要ですわ。席に着いた瞬間から、私の求める方ではないことは分かっておりましたもの。夫として望むのは、少なくとも身長180センチ以上。元自衛官でいらっしゃるなら、階級は二等陸佐以上。いわゆる、エリートで、経済力がおありで、そして見目麗しい方。残念ながら、そっちは何一つ基準を満たしていらっしゃらない。……つまり、大野弘さん、あなたでは、私、星野夏子には到底釣り合いませんの。……ああ、でも、そっちのような方との食事は、かえって食費が浮いて助かりますわ。ごちそうさまでした。あとは、ごゆっくり」