忌々しき記憶が思い出した

目の前の男の顔色がみるみるうちに曇っていくのを気に留めるでもなく、星野夏子は冷ややかに言い放った。

「そのような人がいるから、部隊全体の品位が疑われるのよ。さっさと除隊なさったら?その制服が泣いているわ」

夏子はどこか諦めたように眉をひそめ、ハンドバッグから数枚の千円札を取り出すと、こともなげにテーブルに置いた。椅子にかけてあった手袋をひっつかむと、さっさと立ち上がり、氷のような冷ややかさを纏ってその場を後にした。

とんでもない男だった。まさに、稀代の間抜け、と言うべきか。

もう、うんざりだ。

この1年というもの、お見合いの数は数十回にも及んだ。時には1日に何件も掛け持ちすることもあって、精神的に限界を感じずにはいられない。

軋むような疲労感を全身に引きずりながら、夏子は住み慣れたマンションへと帰ってきた。

そのマンションは川沿いに建つ臨江アパートで、夏子が去年手に入れたものだ。決して広くはない。90平方メートルほどの2LDKは、どこか手狭な印象も受けるが、一人で暮らすには十分な広さだった。

部屋全体は淡いゴールドを基調とし、ヨーロッパのローマ古典様式と現代的なデザインが融合した、どこか華やかで落ち着いた雰囲気だ。過度な贅沢さは感じさせず、むしろ温かみのようなものがそこかしこに漂っている。

星野夏子はグラスに水を注ぎ、ゆっくりとソファに腰を下ろすと、張り詰めていた心がようやく少しだけ和らいでいくのを感じた。ふと顔を上げ、がらんとした部屋を見渡すと、瞳の奥に、ふと淡い愁いが広がっていく。

水を一口含み、気分転換にテレビのスイッチを入れた、その時だった。テーブルの上に置いてあったスマートフォンが、ぶるぶると震え始めたのだ。

星野夏子は反射的に動きを止め、スマートフォンを手に取る。画面に表示された名前に気づいた瞬間、その瞳に宿っていた愁いの色は、さらに深まっていくようだった。

「もしもし?お祖父様、私です」

いつもの冷めた声に、ほんの少しだけ柔らかな響きが混じる。

電話の向こうからは、まず数回の咳払いが聞こえ、それから、掠れてはいるが心遣いに満ちた老人の声が響いた。「夏子か。夕飯はもう済ませたのかね?」

「ええ、いただきました。ちょうどマンションに戻ったところです。こんな遅くに、お祖父様こそ、まだお休みになっていらっしゃらないのですか?」

夏子はテレビの音量を下げながら、そう問いかけた。

「なに、夜更かしはいつものことじゃ。さっきお茶を数杯飲んだら、どうにも目が冴えてしまっての。そうだ、一つ頼んでおきたいことがある。必ず、実行してほしい」

老人の声が続く。その言葉は、どこか有無を言わせぬ響きを帯びていた。

「わしの体も、年々弱ってきている。君の母親は仕事一筋じゃし……今、一番気がかりなのは、やはり夏子、君のことだ。確かに、最高の相手を見つけてやると、そう約束したはずじゃ。わしは滅多に人を褒めん。だから、これまで誰も紹介しようとは思わなかった。どいつもこいつも、釣り合わんとな」

そこで老人の言葉がふと途切れ、一拍置いてから、再び続いた。

「じゃが今日、一人の男だけ、紹介したいの。なかなか見所のある男じゃ。責任感もある。ニューヨークから戻ってきたばかりでな。この機会に、一度会ってみるがよい。場所はもう手配してある。今週土曜の午後3時半、竹韻楓林天号室じゃ。遅れるでないぞ。相手がどういう人物かは、自分自身の目で確かめるがよい。わしはな、もしかすると、夏子に案外お似合いかもしれんと思うとるんじゃ」

電話の向こうの相手はそれだけ言うと、一方的に通話を切ってしまった。夏子が返事をする間もなく、ツーツーという無機質な音が耳朶を打つ。

夏子は、暗くなったスマートフォンの画面を呆然と見つめながら、力なく苦笑した。

とうとう、お祖父様まで自分の結婚を心配し始めた。でも、何が言えるというのだろう。

ふと、深田文奈(ふかだ ふみな)の淡々とした声が耳の奥で蘇る――

もう26になったよ、夏子。16じゃないの……

……

土曜日の朝。せっかくの週末で、星野夏子は仕事も休みだったが、それでもいつものように早くに目を覚ました。部屋中を丁寧に掃除し、簡単な朝食を済ませると、静かに家を出た。

外は凍えるように寒い。家を出た時の空は鈍色の雲に覆われ、どんよりとした冬空が広がっていた。細かい雨がぱらつき、絶え間なく吹き付ける冷たい風が、容赦なく肌を刺す。

夏子は元来、人付き合いを好まず、控えめな性格だった。普段は仕事上の付き合い以外、ほとんど誰とも交流を持たない。時間がある時は、読書をしたり、お茶を嗜んだり、琴の音に耳を傾けたりして過ごすのが常だった。

彼女は無類のお茶好きで、その高尚な趣味が高じて、北城区の賑やかな繁華街から少し離れた静かな一角に、一軒の茶館を開いていた。店の名は、「竹韻清風」。

普段、彼女自身は表に出ることはなく、店を任されているのは、小林健太(こばやし けんた)という、どこか学者然とした穏やかな物腰の中年男性だった。聞けば、以前は大学で教鞭を執っていたらしく、同時に中国古文化の研究者でもあり、日本の茶道や琴にも造詣が深いという。

夏子がこの茶館を開いた当初、彼は毎日のように店を訪れては、お茶を飲み、囲碁に興じていた。やがて二人は意気投合し、夏子はこの茶館の経営を彼に任せることにした。もちろん、それは彼が執筆活動に専念できるようにという配慮もあってのことだった。

茶館は、まるで広大な竹林の中に隠れ家のように佇んでいる。規模はそれほど大きくなく、敷地面積は400平方メートルほど。二階建ての建物は、全体が水墨画のような江南地方の古風な趣で統一されていた。

書店で買い込んできたばかりの本を抱え、星野夏子が竹韻清風の暖簾をくぐると、店内には既に幽玄な琴の音が静かに流れていた。週末は、平日と変わらず多くの客で賑わっている。

「星野さん、いらっしゃいませ!」

茶館の従業員たちは皆、夏子とは顔馴染みだった。彼女がほぼ毎週末、店に顔を出すからだ。しかし、この若く美しい女性が、実はこの茶館の本当の主人であることを知る者はほとんどいない。従業員たちは皆、小林教授の教え子で、教授と親しい間柄なのだろうと、そう思っていた。

星野夏子は軽く頷くと、抱えていた本を壁際にずらりと並んだ書棚に丁寧に収めた。従業員が手際よく、いつもの茶を淹れてくれる。夏子はふう、と息をついて席に着き、湯呑みに口をつけた。その時だった。傍らに置いていたスマートフォンが、再び震え始めた。

夏子はスマートフォンを手に取り、画面も見ずに通話ボタンを押した。電話の向こうからは、すぐに親友である須藤菜々(すどう なな)の明るい声が飛び込んできた。「夏子、あたしよ!今、汐見市!乗り継ぎなんだけど、あと8時間もしないうちに、あなたの愛しの須藤菜々様に会えるわよ!」

夏子は静かにお茶を一口啜ると、その白く整った顔に、淡い微笑が浮かんだ。「菜々さん、数日会わないうちに、随分と自信家になられたのね」

電話の向こうからは、すぐに須藤菜々の屈託のない笑い声が響いた。しかし、その笑い声の後、菜々はふと長い沈黙に陥った。夏子も何も言わずに待つ。しばらくして、スマートフォンから、どこかためらうような菜々の声が聞こえてきた。

「夏子……」

菜々の声は、どこか重苦しく、そして、抑えきれない怒りのようなものが微かに滲んでいる。

「うん?」

夏子は手にしていた湯呑みを静かに置くと、傍らにあった華道の専門書を手に取り、漫然とページをめくり始めた。菜々の様子がいつもと違うことに、うっすらと気づいていた。やがて、静かに問いかける。「どうしたの?」

電話の向こうで、菜々が深く息を吸い込む音が聞こえた。何かを決意したかのように、声を潜めて言った。「さっき……橋本楓(はしもと かえで)を見たの……星野心(ほしの こころ)と……二人一緒だった。あたしと同じ便で。」

「夏子……あの二人、帰ってくるのよ」

須藤菜々の言葉が途切れた瞬間、夏子は全身が凍りついたように動きを止めた。両手が急速に強張り、スマートフォンを握る指が、知らず知らずのうちに白くなるほど強く握りしめられていた……。

耳の奥で、菜々の低く抑えた声が、いつまでも繰り返し響いていた――

さっき橋本楓を見たの……星野心と……二人一緒だった。あたしと同じ便で。