街の通りは、不気味なほど静まり返っていた。朝広 巧(あさひろ たくみ)は、あの「交差点」へと足を運んでいた。
チカチカと点滅する街灯の下、世界はどこか違って見えた。不安定で、壊れやすくて、何もかもが“脆さ”を抱えていた。
歩道沿いの壁や電柱には、無数のポスターや張り紙が乱雑に貼られていた。どれもが、沈黙の叫びのように抗議の言葉を放っている。
「腐敗を止めろ!」
「縁故主義がこの国を腐らせている!」
「南極は嘘だ!」
「真実は隠されている!」
「遠征チームに正義を!」
巧は歩みを緩め、貼り出された反乱のコラージュをじっと見つめた。問いを抱えているのは、自分ひとりではなかったのだ。
——そのとき。
街灯の下に、一人の少女が立っていた。
倉崎・美羅(くらさき みら)
目が合った。
何かを言おうとした瞬間、巧は彼女の背後に気づく。三人の男が、素早く接近していた。
美羅の視線が横に走る。鋭く、計算された動き——すぐに状況を察知した彼女は叫んだ。
「逃げて!!」
一瞬、巧の体が固まる。
“逃げる”?なぜ?彼らは誰だ?何者だ?
だが、次の瞬間——逃げる代わりに、巧はミラへ向かって走り出していた。本能が、思考よりも早く動いた。
彼女もすでに、行動を開始していた。
三対一。
だが、彼女の動きはまるで空を裂く刃のようだった——しなやかで、正確で、無駄がない。
一人の男が突進してくるも、美羅はそれを軽くかわし、彼の腕をひねり上げて背後に回し、そのまま地面に叩きつけた。
巧がその動きに感心する暇もなく、別の男がこちらへ向かってきた。考えている余裕はない。
巧は拳を握りしめ、振り抜いた。拳は相手の顎に直撃し、男はよろめきながら後退した。
美羅は残りの二人を難なく制圧した。一人を関節技で動けなくし、最後の一人を容赦なく気絶させた。
——戦いは、ほんの数秒で終わった。
巧はその場に立ち尽くし、荒い息を吐きながら鼓動の高鳴りを感じていた。
「……奴らは、一体何者だ?」
まだ息を整えながら、そう問いかけた。
美羅は手首を軽く振り、戦いの余韻を払うようにして言った。
「知らない。どうでもいい。ついてきて。」
彼女は巧の返事を待たなかった。
巧は一瞬迷ったが、すぐに彼女の後を追い、通りの端に停められたバンへと向かう。ナンバープレートもなく、窓は濃いスモークで中は見えない。
美羅はドアを開けて言った。
「乗って。」
巧はためらったが、彼女の声に込められた“切迫”が、疑念を押しのけた。彼は車内に乗り込む。
美羅は静かにドアを閉め、前方に向かって指示を出す。
「今すぐ出して。」
バンが急発進した。
巧が「どういうことだ?」と声をかけようとしたその瞬間——何かが顔に押し当てられた。
微かな匂い。気づいたのは、一瞬遅かった。
——闇が、すべてを飲み込んだ。
交差点には、三人の男たちが倒れたまま動かずに残されていた。激しくも短い戦いの痕跡だけが、そこにあった。
街灯がチカチカと点滅し、不気味な影をその場に落としていた。
少し離れた場所——黒光りする高級車が静かに停まっていた。エンジンは静かに唸りを上げ、その中で一人の人物が、スモークガラス越しに現場をじっと見つめていた。
ハンドルの上で指が、無言でリズムを刻んでいた。
男は無線機に手を伸ばし、揺るぎないが落ち着いた声で言った。
「……予想通りだ。奴は、自分の“側”を選んだ。」
短い沈黙の後、イヤーピースから冷えた声が響いた。
「他に選択肢はない。——排除しろ。」
男はゆっくりと息を吐き、唇の端に薄く笑みを浮かべた。
「了解。」
巧のまぶたがかすかに動き、ゆっくりと目を開けた。
鈍い頭痛が後頭部に残り、彼は見慣れない薄暗い部屋の空気に徐々に順応し始めた。
空気は冷たく、無機質で、不自然なほど静かだった。
彼は突然、上体を起こした。
心臓が激しく胸を叩き、息は浅く不安定だった。
目に映るものすべてが見知らぬもので、脳は必死に状況を理解しようとしていた。
そのすぐ横に——
美羅が腕を組み、壁にもたれかかりながら、何も感情を表さない目で彼を見つめていた。
混乱は怒りに変わり、巧の拳が握られる。
「……何が起きてる!?ここはどこだよ!」
その声は鋭く、問い詰めるように響いた。
断片的な記憶が一気に押し寄せる。
走っていたこと。戦っていたこと。
バンの中、あのハンカチ——そして、暗闇。
美羅はほとんど動じず、わずかにため息をつくと、どこか無関心とも取れる落ち着いた口調で答えた。
「ここは……エデンフォール本部よ。」
その言葉を聞いた瞬間、巧の背筋に冷たいものが走った。
「……エデンフォール?」
巧はその言葉を繰り返した。息が詰まる。
聞いたこともない名前のはずなのに、どこか重みを感じた。
まるで、自分の上に覆いかぶさる巨大な影のように——
美羅はようやく身体を巧の方へ向け、少し首を傾けた。
「私の名前は倉崎 美羅。」
その口調はあまりにもあっさりしていて、まるで天気でも話すかのようだった。
「私はエデンフォールの潜入工作員よ。あなたを監視するのが任務だった。」
巧の血の気が一気に引いていった。
「……俺を、監視……?」
信じられないという感情が声ににじむ。
「なぜ、そんなことを……!?」
「だって、あなたは私たちにとって——」
その瞬間、扉がきぃ……と音を立てて開いた。
一人の男がゆったりと入ってくる。軽快な動きの中に、奇妙な威圧感と余裕が同居していた。
彼は美羅と巧の間に視線を移し、口元ににやりと笑みを浮かべた。
「ふ〜ん……目が覚めたら、二人きりで部屋にいるとか?
ミラ、そんなに手が早いなんて知らなかったよ。どう?彼、タイプ?」
美羅の顔が一瞬で真っ赤になった。
「なっ……!? 黙れ、綾翔(あやと)!!」
怒りと恥ずかしさが一気に噴き出す。
男——倉崎 綾翔(くらさき あやと)はくすっと笑いながら、ドア枠にもたれかかった。
「おやおや?その反応、ずいぶん防御的じゃないか?
なるほど……俺が来る前に、何かあったのかな?」
美羅は殺意のこもった視線を向けた。
「せめて、ノックしてから入れっての、バカ。」
「あーはいはい、落ち着けって、妹ちゃん。」
綾翔は両手を上げ、ふざけた調子で降参のジェスチャーをした。
「でもさ、もし男連れ込むなら、次はちゃんと鍵くらいかけろよ?」
巧はぱちぱちと瞬きをした。
「妹……?」
半信半疑で、美羅の方を見る。
美羅は鋭く息を吐き、こめかみを押さえた。
「……そう。あいつ、私の兄貴よ。」
ついに、朝広 巧の忍耐が限界を超えた。
「いい加減にしろよ。もう遊びは終わりだ。
誰でもいいから説明しろ。何が起きてる?
そして……俺の何がそんなに“価値がある”ってんだ?」
綾翔の笑みがわずかに薄れ、その瞳に鋭さが宿る。
「まず自己紹介からだな。俺の名前は倉崎 綾翔(くらさき あやと)。」
両手をコートのポケットに入れながら、落ち着いた口調で続けた。
「そしてああ、確かにお前は“価値ある存在”だ——俺たちにとっても、奴らにとってもな。」
「奴ら……?」
巧の身体がこわばる。嫌な予感がした。
綾翔は短く笑ったが、その表情はどこか読めなかった。
「俺たちが目をつける前から、奴らはずっとお前を監視していた。
国内最高の大学で首席を取る?それだけでも十分目立つ。
だが……“南極の件”でお前が動いたあの日から、連中は完全に狙いを定めた。」
「……南極……」
巧は息を詰まらせる。
脳内で断片的な記憶が巡り、あの日の出来事の意味を必死に繋ぎ合わせていく。
彼の拳がゆっくりと握りしめられていく。
「そんなの関係ない……!
“奴ら”が誰だろうと、あんたたちが何者だろうと……知ったことじゃない!
だけど、なぜ俺なんだ!?
俺に何があるっていうんだよ!?
……何もない……生きてるかどうかすら怪しいってのに……!」
声が少し震え、胸の奥が締めつけられる。
すべてが、音を立てて崩れはじめていた。
綾翔が一歩前に出て、じっと巧を見つめた。
その目には、好奇心と……それ以上に、哀れみにも似た感情が浮かんでいた。
「……お前の頭は鋭い。まるで日本刀のようだ。」
そうつぶやくと、ふっと表情を和らげた。
「でも、お前はまだ若い。“真っ白なキャンバス”みたいなもんさ。
誰だって、好きなように色を塗れる。」
口調は柔らかくなったが、言葉には不気味な鋭さが含まれていた。
「だがな……この世界は、お前にとって特に残酷だったようだな。」
巧は奥歯を噛みしめるが、綾翔の言葉は止まらない。
「その頭脳——輝かしくて、でもどこか無垢で、
悲しみと憎しみを抱えている。
……もし、お前が“悪”としての道を選んだなら——」
綾翔は静かに笑った。だがその笑みには、冗談の色はなかった。
「お前は、自分が想像する以上の存在になれる。」
巧は目を閉じた。
すべての断片を、自らの鋭い思考で繋ぎ合わせようとしていた。
政府は根っこから腐っていた。
腐敗、欺瞞、裏の計画。
巧は、以前からそれを疑っていた。
だが——
南極の件が起きて、研究チームの主要メンバーが次々と不審死を遂げたあの日から、すべてが決定的になった。
巧は綾翔と美羅の方へ目を向け、
内側で嵐のように渦巻く感情を押さえながら、落ち着いた声で言った。
「……エデンフォールってのは、政府に対する反抗勢力なんだな?
話を聞く限り、あんたたちは“奴ら”から俺を守っているように見える。
違うか?」
綾翔は片眉を上げ、感心したように微笑んだ。
説明も不十分な中で、すでにそこまで理解している巧の鋭さに——
「なるほど。」
綾翔はくすっと笑った。
「そりゃあ、奴らが欲しがるわけだ。」
彼は壁にもたれ、腕を組む。
「その通りだ。俺たちエデンフォールは、腐敗した政府を潰すために存在している。」
「だがな、それだけじゃない。」
彼の声が少し低くなった。
「真実はこうだ——この地球は、世界が信じてるようなものじゃない。
南極の向こうには、“もっと先”がある。もう一つの世界がな。」
「俺たちはそれをずっと知ってた。だが証明できなかった。
……そう、“あの研究チーム”と組むまではな。」
巧の呼吸が一瞬止まる。
「連中は……否定できないものを見つけてしまった。」
綾翔の表情が暗くなっていく。
「リスクは分かってた。俺たちは守ると約束した。
でも……最終的に救えたのは、一人だけだった。」
美羅 倉崎の表情は読み取れなかったが、
その瞳に、一瞬だけ哀しみの色が走った。
「俺たちの使命は、この檻から人類を解放することだ。」
綾翔は続ける。
「“選ばれし者たち”が自分たちのために作り上げた、偽りの楽園——
このエデンから。」
そして、彼は巧の目をじっと見据えた。
「朝広 巧。お前を監視していたのは理由がある。
政府は、お前に対して二つの計画を持っている。」
「一つは、“仲間に引き込む”こと。
もう一つは、“消す”こと。」
「奴らは、人々を家畜のように扱いたいんだ。
逆らわず、疑わず、彼らの作ったシステムの中で黙って生きる人間。
奴らは神を気取ってる。ここだけじゃない。
世界中の国々が、すでに奴らの支配下だ。」
その声は冷たく、刃のように鋭くなっていた。
「だから、エデンフォールは存在する。——奴らを潰すために。」
巧の目が見開かれる。
衝撃。それは確かにあった。
だが——本能的に、彼の口元に静かな笑みが浮かんだ。
真実が、ついに目の前に現れたのだ!。