第３章
彼女は口元の血を拭き取り、おばあさんとの小さな家に戻ると、震えるおばあさんの手が一通の手紙を差し出した。
彼女は静かに開封し、そして、心が水のように冷えていった。
則安からは「一度も愛していない。忘れてくれ」と書かれていた。
その瞬間、彼女の目から突然涙が消えた。
暑い晩だったが、戸口に座る彼女の全身は冷え切っていた。
翌日、おばあさんを病院に連れて行く前、叔父夫婦が小柄な中年男性を連れてきて、彼女の将来の夫だと言った。
彼女は驚愕し、叔母の冷笑を聞いた。「お前、嫁に行けば、婆さんの薬代が稼げるだろう！」
そして冷たい叔父が彼女を引っ張り、その中年男性の腕の中に押し込もうとする。結納金は既に渡されており、今日が引き取りの日だという。
彼女は我に返り、叔父の腕に噛みつき、彼の束縛から逃れて外に飛び出した。
走り続け、耳には風の「ヒューヒュー」という音と、背後の叔父の怒号だけが聞こえた...彼女はおばあさんとの小さな家から逃げ出し、小さな漁村から逃げ出し、最後には干し魚を満載したトラックの荷台に乗り込んだ。トラックが動き出すと、彼女を追いかけてきた二人の男の姿は遠ざかっていった。
そして彼女は干し魚の山に身を隠し、心は灰のようだった。
夜になり、トラックは神戸市の街へと着いた。運転手が荷卸しをしている隙に、彼女はそっと荷台から降りた。
裸足で賑やかな大通りを歩くうちに、自分には行くあてがないことに気づいた。
無一文で、サンダルも逃亡中に失い、おばあさんの元へ戻ることもできない...
通行人たちの訝しげな視線を浴びながら、見知らぬ街をただ静かに歩き、やがて大きな橋の上で足を止めた。
激しく流れる川、雲を貫く高層ビル、絶え間ない車の流れ──全てが華やかできれいだった。
しかし、彼女の心は頭上の空のように、暗雲に覆われていた。
彼女は裸足で橋の欄干に上り、風に向かって踊り、激しい風に服や髪を乱されていた。
そして、一滴の液体が頬に落ち、二滴、三滴...
そして、雷鳴がとどろき、稲妻が夜空を切り裂いた...
そして、彼女はしゃがみ込み、自分を抱きしめ、すすり泣き、土砂降りの雨に身をさらした。
しばらくして。
土砂降りの中、雨音を掻き消すように「大丈夫か」という低い声が響いた。
彼女は顔を上げると、背の高くかっこいい男が自分の前に立っていた。短く刈り上げた髪、冷たい目元、鋭い輪郭──しかし全身に纏う孤独感。それが彼との出会いだった
雨に濡れたショートカットとシャツ。冷たく深い瞳、くっきりとした美貌、反抗的なほど短い髪――しかし全身から滲むのは、人を寄せつけない痛みのオーラだった。
これが、彼女の彼に対する最初の印象だった。
天井を見つめ、彼女は眠れなかった。
枕にはまだ彼の髪の良い香りが漂っていて、彼女は小さな顔をその柔らかい枕にこすりつけ、思いを取り戻した。
以前の記憶は、この男と出会ってから少しぼやけてしまった。今の彼女の生活には、おばあさんの他に、彼がいた。
住まいと神戸大学の学費、おばあさんの治療費と引き換えに、卒業後の出産を約束させた男。「子供ができたら契約終了」という現実的な取引。
これが彼らの間の取引で、このマンションに連れてきた時から、彼は彼女にはっきりと言い、契約も結んだ。
信じがたいけど、これが現実だ。違うか？
彼女はベッドで幾度も寝返りを打ち、結局眠れず、ショールを羽織って全面窓の前へ向かった。窓を開けて、裸足でバルコニーに出た。
外は真っ暗で、隣のマンションは全て消灯し、波の音だけが暗闇に響いていた。
真正面から吹きつける海風が、彼女の黒いパジャマと黒髪を乱した。潮香りの混じった風を深く吸い込むと、その匂いはおばあさんと浜辺で魚を拾った日々や、則安と並んで夕日を見た時間を思い起こさせた。この四年間、則安はアメリカでどのように過ごしているのだろうか。
則安の笑顔はもう記憶の中でぼやけかけていた。彼に関する全ては、砂浜の下に埋めてしまった。彼女は四年かけて忘れる術を学んだのだ。今なら、則安に会っても祝福の言葉をかけられるだろう。。
そよぐ海風に突然寒さを感じ、彼女は部屋に引き返し、全面窓を閉めた。
彼女は部屋を出て、階段の角に向かって歩いた。そこは彼の書斎で、ドアは半開きになっており、かすかな光が漏れていた。
柔らかいカーペットの上を裸足で歩く彼女は、夜の精霊のように物音を立てなかった。
彼女はまず一階に降りて緑茶を入れ、それから静かに彼の書斎の前まで歩いた。
ドアの隙間からは、書類の山に埋もれた机と、数字で埋め尽くされた報告書が映るノートパソコンの画面が見えた。彼は大きな手でマウスを握り、忙しく画面をスクロールさせていた。最後に、彼はマウスを置き、指で眉間をこすり、大きい背中には疲れがにじんでいた。
緑茶を手に、そっとドアをノックする。。
振り向いた彼は眉を上げ、深い瞳に驚きを浮かべた。「まだ起きていたのか？」
軽く頷いて中に入り、緑茶を差し出した。乱雑な机を見て、彼女は手話で尋ねた。「手伝いましょうか？眠れないから」
透明なカップを受け取ると、彼はさりげなく伏せられていた写真立てを引き出しにしまい、「ありがとう」と低く呟いた。
彼女はかすかに微笑み、手際よく書類を整理し始めた。
数分後、机の上は整然となり、彼はすでにノートパソコンの電源を切り、ティーテーブルの横のソファに座って彼女を待っていた。
彼女はショールをしっかりと身に纏い、軽やかに歩いて彼の隣に座った。
「しばらく忙しくなる。時間を作って来るから、準備を進めておいてくれ。その時は使用人も雇う」仕事中の鋭い口調でそう言うと、小切手帳を取り出し、数字を記入してテーブルに置いた。
「足りなかったら、また言ってくれ」彼は一言付け加え、漆黒の瞳には一片の波も立たなかった。
彼女はちらりと彼を見ると、パジャマの裾をぎゅっと握りしめた。
「寝なさい」彼は立ち上がり、パジャマを着た背の高い体には強い圧迫感があった。
彼は彼女を待たず、書斎のドアの鍵を開け、直接寝室に向かった。
その夜、二人は同じベッドで眠りながら、まるで見知らぬ他人のように距離をとっていた。