片桐陽向が去ると、秘書デスクの空気がずっと軽くなり、森川萤子は長く息を吐いた。
江川淮はおしゃべりだった。
実は、あの日駐車場で彼らは会っていたのだが、当時の状況が混乱していて、森川萤子は彼が運転席に座っていることに全く気づかなかった。
だから……
彼は彼女が片桐陽向に強引にキスし、逆に片桐陽向に強引にキスされる過程を全て目撃していたのだ。
なんて運命的な縁だろう!
「あの日、僕はびっくりしたよ。社長がきっと君を潰すだろうと思ったのに、まさか……」
江川淮はおばさんのような笑みを浮かべた。「みんな社長のことを清浄な仏子の生まれ変わりで、愛も欲もないって言ってるのに、あの日君を椅子の背もたれに押し付けて強……」
「江口補佐!」森川萤子は彼が耳が熱くなるようなことを言い出しそうで、急いで彼の言葉を遮った。「片桐社長は先ほど熱いお茶が足にかかって、少しやけどをしたみたいです。やけど薬を買ってきてあげてください。」
江川淮は目を細めて笑った。「わかったよ、心配してるんだね。すぐ行ってくる。」
森川萤子:「……」
彼女は本来江川淮の注意をそらそうとしただけだったのに、彼にこんな風に曲解されて、逆に彼女が片桐陽向を心配しているように見えてしまった。
彼女が心配するわけないじゃない!
自分のことを心配する方がまだましだ。
森川萤子が説明しようとした時、江川淮はすでににこにこしながら行ってしまい、彼女は頭に黒い線が浮かんだ。
片桐陽向の周りの人はみんなこんなに世間体を気にしないのだろうか?
彼らは全く考えていないのか、彼女は人妻だということを……人妻なのだ!
この天から降ってきた幸運は、彼女には相応しくないのだ!
江川淮はやけど薬を買って戻ってきたが、分別をわきまえて森川萤子に届けさせなかった。
社長室の中。
片桐陽向と江川源はすでに話を終えていた。江川淮が腕を振りながら入ってくるのを見て、江川源は尋ねた。「手に持っているのは何?」
「やけど薬だよ。森川秘書が買ってくるように言ったんだ、社長のために。」江川淮は薬を片桐陽向の前に差し出した。「社長、やけどしたんですか?」
片桐陽向は深い眼差しで、「ああ。」