「い……いいえ、中に入るだけで大丈夫です。」夏野暖香は言いながら、橋本健太に向かって気まずく笑った。「今日はありがとうございました。」
もし乗馬クラブで橋本健太に会っていなかったら、彼女はどんな惨めな姿で撮られていたか分からなかっただろう。
「大丈夫ですよ。」橋本健太の笑顔は、いつも優しく、清らかな泉のように、静かに、音もなく彼女の心の川に流れ込んでくる。
温かく……近くにいるのに……でも手の届かない……
夏野暖香の目が不意に赤くなった。「さようなら……」
そう言うと、振り返って中へと歩き始めた。
歩くにつれて足取りが速くなり、頬に浮かんだ涙も大粒になって落ちていった。
地面に落ちた涙は、先ほど降った一時的な雨の中に消えて、跡形もなくなった。
橋本健太はハンドルを握りしめていた。
視線は、去っていく少女の背中に注がれていた。
突然、彼は左手を自分の左胸に当てた。
そこが、不思議と、痛みを感じていた。
予兆もなく訪れた痛みが、彼の四肢を襲った。
なぜ……なぜ胸がこんなに痛むのか?
なぜ……頭の中に、七々の顔が浮かぶのか?
橋本健太の目の前に暗い影が過り、血の色が混じっていた。
頭を、ハンドルに強く打ちつけた。
いや……
きっと七々が恋しいだけだろう?
ここ数日、まるで魔が差したかのようだった。
たった今、彼はなんと、人妻に対して感情を抱いてしまった。
しかも、この女性は、自分の親友の友人でもある。
いけない。
橋本健太の手の甲に、青筋が浮き出てきた。
七々……必ず君を見つけるよ!
絶対に。
……
ホテルでシャワーを浴び、服を着替えてから、南条陽凌を見舞いに病院へ向かった。
もし南条陽凌が彼女が雨に濡れたのを見たら、きっとまた彼女をからかうだろう!
普通のスポーツウェアに着替え、髪を乾かしてから、出かけた。
ロビーに降りたとき、レストランでステーキとイタリアンパスタを注文し、南条陽凌に持っていくことも忘れなかった。
午後の出来事を経て、シャワーを浴びた後、夏野暖香は気分が不思議と良くなったと感じた。
橋本健太と二人で車の中で静かに過ごした時間を思い出すと、その感覚は、まるで子供の頃に南條漠真と一緒にいた時のようだった。
幸せな感覚だった。