「薫織、昨日私が買い物をしていたとき、田中おばさんに会ったわよ」
「田中おばさんって?どこの田中おばさん?」食事中だった林薫織は顔を上げた。
「子供の頃におもらしをかけたあの田中おばさんよ、覚えてないの?」
林薫織はハッとして、少し恥ずかしそうに言った。「田中おばさんならA市にいるんじゃなかったの?どうしてここで会ったの?」
「彼女は退職したわ。家はT市にあるけど、娘さんがこちらで働いていて、親戚も何人かここに住んでるから、ついでに引っ越してきたのよ」
「そう…」林薫織は最後の一口を食べ終えると、食器を片付けようと立ち上がったが、林の母が何か言いたそうな顔を見せている。
暫くして林の母は口を開いた。「実はね、田中おばさんの甥が最近、留学の博士号を取って帰国したの。あなたより3歳年上で、写真を見たけど、立派な若者で、とても似合ってるわ。もしあなたが…」
「母さん、最近忙しいから、このことはまた後で考えてもいい?」
それに、離婚した女性と結婚してくれる人なんて、いるんだろうか?
「どんなに忙しくても人生の大事なことは後回しにできないわ。あなたはもう25歳よ。お正月を過ぎれば、もう26歳になるのよ」
林薫織がここ数年ずっと一人で過ごし、周りに男性の友達さえいないことを考えると、林の母は心配してきた。「薫織、母さんの体調がよくないのよ。いつ息が絶えるかもわからないわ…でも父さんはもう…そうなったとき、あなたは一人ぼっちになるのよ。そんなこと思うと、どうやって安心できるというの…」
「母さん、そんなこと言わないで!」
「自分の体のことは、私がよく分かっているわ。薫織、母さんの病気はここ数年間、あなたの足かせになってたのね。この病気がなければ、あなたもここまで苦労することはなかったはず。母さんは時々思うの、こうして生きるか死ぬかの境目でもがくより、死んだ方がすっきりするんじゃないかって。ただ、あなたのことだけは心配なのよ」
林薫織は思わず目に涙を浮かべ、しゃがみ込んで母親をしっかりと抱きしめた。「母さん、そんな縁起でもないことを言わないで。母さんの病気も、私たちの生活も、きっと良くなるから」
可能性が薄いとわかっていても、林の母はうなずいた。
二人は暫くの間無言のまま、しっかりと抱き合った。林薫織にとって、母親はこの世界で唯一手の届く温もりであり、その温もりを守るためなら、彼女は何でも犠牲にする覚悟ができている。
「一晩中働いて疲れたでしょう。少し眠りなさい。昼食の時間になったら、母さんが起こすから」林の母は林薫織の背中を優しく叩きながら、小声で言った。
「うん」
林薫織は寝室のドアを開けた。彼女の部屋は10平方メートルほどで、ベッド一つとタンス一つがちょうど収まるくらいの広さだ。
林薫織は身をかがめ、ベッドサイドテーブルの一番下の引き出しから小さなガラス瓶を取り出し、薬を一錠出して口に入れ、頭を後ろに傾けて何も飲まずに飲み込んだ。
苦い味が口の中に広がり、とっくに慣れ親しんだ味が、口から内臓まで広がっていく。幼い頃から彼女は苦い味が嫌いだったが、この3年間、彼女はこの薬に頼らざるを得なくなった。
しかし、この薬は彼女を眠りに誘うことはできても、悪夢から解放することはできない。
いつの間にか、彼女は濃い霧に包まれ、霧が晴れると、自分が高校の制服を着たまま、病院にいることに気づいた。そして彼女は、一人の看護師に質問されているようだ。
……
「患者さんの家族の方ですか?」
「いいえ…彼のことは知りません。地下鉄の出口から出てきたら、事故現場を見かけました。加害者の運転手はどこかに行ってしまったようです。彼が重傷だったので、ここに連れてきました」
……
徐々に、看護師の姿がぼやけていき、病院の廊下もテープカットの式典会場へと変わった。今回の場面の主役は依然として彼女だったが、今回は礼儀正しい装いで、目の前にはスーツを着たとてもハンサムな男性がいた。
「ね、久しぶり!」彼女は笑顔で男性に挨拶した。
しかしその男性が返したのは、冷たい視線だけだった。
「私のこと忘れちゃったのね。まあいいわ、あの時のあなたは、意識不明の状態だったんだし、大目に見てあげるわ。私は林薫織、今後はこの名前を忘れないでね、だって…だってあなたの将来のガールフレンドの名前なんだから!」
「悪いが、もう彼女がいるんだ」