夜が静まり返り、月の光だけが、寄り添って眠る母子の身体に静かに降り注ぐ。その輪郭を、清らかな輝きで縁取っていた。
翌朝。夏挽沅はまだ目が覚めきらないうちから、腕の中に温かい塊があるのを感じていた。目を開けると、宝ちゃんが大きな瞳でじっとこちらを見つめている。その大きな瞳には自分の姿が映り込み、長い睫毛がぱちぱちと瞬いていた。
朝一番に、そのあまりの愛らしさに不意を突かれ、夏挽沅は思わず目元を和らげた。「どうしたの?ずいぶん早いのね」
「きのうの、ゆめじゃなかったんだね。ママ、これからもきのうと一緒?」宝ちゃんは、これが現実だと確かめるように、夏挽沅の肩にぎゅっとしがみつく。
宝ちゃんの信じられない、それでいて期待に満ちた表情に、夏挽沅の胸はきゅっと締め付けられた。この小さな子は、どれほど心許ない思いをしてきたのだろう。自分がずっと良くしてくれるのだと、こうして何度も確かめずにはいられないほどに。
「もちろんよ。これからも、ずっと昨日と同じ。今日もお母さんがお迎えに行ってもいい?」
「うん、ママ、やくそくだよ。ゆびきりげんまん!」
宝ちゃんはそう言って小さな手を差し出し、夏挽沅の小指に自分の指を絡ませる。二人だけの、大切な約束が交わされた。
朝食を済ませ、運転手に頼んで宝ちゃんを幼稚園へ送らせる。宝ちゃんは、名残惜しそうに夏挽沅から離れようとしない。
「おうちで待ってるから、幼稚園でいい子にしてるのよ」夏挽沅が笑いながら宝ちゃんの頬にキスをすると、宝ちゃんはようやく、顔を真っ赤に染めながら恥ずかしそうに車に乗り込んだ。
そのやり取りを見ていた使用人たちは、顔には出さないものの、内心ではひどく動揺していた。
昨日のうちに、陳匀とは会って話をする約束を取り付けていた。まだ時間があったので、夏挽沅は家に戻り、使用人たちを下がらせると、一人で屋敷の中を見て回った。現代の事物に対する興味は、まだ尽きることがない。
元の持ち主は本を読むような性格ではなかったが、ヴィラには元々書斎があり、がらんとした本棚が見窄らしく見えないようにと、たくさんの本が買い揃えられていた。
夏挽沅は無造作に一冊を手に取ると、一階のソファに腰かけ、クッションを背に当ててゆっくりと読み始めた。
使用人たちは、夏挽沅が外出しないばかりか、本を取り出して読み始めたのを見て、また何を企んでいるのかと訝しんだ。さては、イメージチェンジでも図るつもりなのだろうか。
数ページもめくれば飽きて本性を現すだろうと高を括っていたが、彼女はソファに腰かけてから2、3時間、身じろぎ一つしなかった。そして、手の中の本は、すでに半分近くまで読み進められている。
陳匀は朝一番に、創星エンターテインメントの上役にさんざん叱責され、腹の虫が治まらないまま夏挽沅に会いに来ていた。ドアを開けるなり目に飛び込んできたのは、掃き出し窓のそばのソファに身を預け、静かに本を読む夏挽沅の姿だった。
シンプルな生成り色のワンピースをまとい、髪は無造作に肩へと流されている。化粧気のないその精緻な顔立ちは、どこか人を惹きつける気品を漂わせていた。その光景は、息をすることもためらわれるほど静謐な一枚の絵のようだった。来る途中で用意してきたはずの罵詈雑言が、喉の奥に引っかかって出てこない。
「陳さん」玄関の方の足音に気づき、夏挽沅が顔を上げた。潤んだ双眸が陳匀を捉える。陳匀の全身を一瞥したその視線に、彼は息を呑み、思わず目を逸らしていた。
「いやあ、夏挽沅さん」愛想よくされては、こちらも強く出られない。会うなり親しげに「陳さん」と呼ばれてしまっては、さすがの陳匀も険しい顔で向き合うわけにはいかなかった。「例の件、もうお聞き及びでしょう」
その琉璃色の瞳に見つめられていると、陳匀はなぜか後ろめたい気持ちになってくる。
「私だって、何とかしようとはしたんですよ。でも、夏さん、あのヒロイン役が、もともと会社が制作側に圧力をかけて取ってきたものだってことは、分かってるでしょう。君の実家からの出資がなくなった今、制作側がキャストを変えたいと言い出したら、私にはもうどうすることもできないんです」
実際のところ、その主役の座は、夏挽沅が多額の出資をすることで得たものだった。夏家が破産し、もとより夏挽沅の主演に不満だった制作側が、この機に乗じて反故にしようとするのは予測できたことだ。ただ、契約はすでに交わされている。今になって制作側が反故にすれば、それは契約違反になるはずだった。
会社が契約を盾に圧力をかけることは可能だ。だが、今の夏挽沅には、その容姿以外に、会社が制作側と事を構えてまで守る価値がないのは明らかだった。
「私の記憶が正しければ」夏挽沅の声が響く。そこには、凛とした響きがあった。「制作側とは契約を交わしているはず。一方的に破棄などできないのではなくて?」
元の持ち主の置かれた状況を整理し、夏挽沅は自分が近いうちにここを追い出されるだろうと察していた。生き延びるためには、きちんと仕事をしなければならない。元の持ち主の身分は俳優だ。ならば、しばらくはその役目を引き継ごうと決めていた。
陳匀の胸が、かすかに高鳴った。以前は気づかなかったが、この夏挽沅という女は、存外に良い声をしている。
「契約は変わりません。ただ、君ともともと助演だった阮瑩玉さんとで、役を交換することになっただけです。阮さんが主役で、君が彼女の役を」陳匀は夏挽沅の視線を避けるように言ったが、ふと思った。なぜ、俺がこいつを怖がる必要がある?
「分かりました。問題ありません。撮影はいつから?」
「いや、そうじゃなくて」反論されると身構えていた陳匀は、呆気に取られた。「……いいんですか?」
「ええ。脚本を送ってください」
言うなり、彼女は再び本に視線を戻した。そして、ちらりと陳匀に目を向け、「まだ、何か?」
「い、いえいえ!戻ったらすぐにお送りします!」予想していた修羅場は起きなかった。それどころか、夏挽沅が何気なく纏う雰囲気に、気圧されてさえいる。彼は思わず目をこすった。間違いない、目の前にいるのは、あの夏挽沅だ。この世界は、いつからファンタジーになったんだ?
夏挽沅が再び本に集中し、もう話す気がないのを見て、陳匀も空気を読んでその場を辞した。去り際に、夏挽沅が手にしている本をちらりと見る。『嵐が丘』。そして、彼女が心底没頭しているように見える横顔を。
はは、と乾いた笑いが漏れた。この世界は、やっぱりどうかしている。
ヴィラを離れても、陳匀はまだ首を傾げていた。なぜ、自分は一言も文句を言えず、すごすごと帰ってきてしまったのだろう。だが、夏挽沅がおとなしく協力してくれるというのなら、それに越したことはない。
もともと彼女が芸能界でやってこられたのは、実家の金で役を得てきたからに過ぎない。演技は稚拙、態度は横柄。ファンなどほとんどおらず、むしろアンチが山ほどいるというのが実情だ。
夏家も破産した今、この作品がおそらく彼女の最後の仕事になるだろう。それに対して、陳匀はこう思っていた。ありがたい、実にありがたい!ようやく、あのお姫様から解放される!
一方、ヴィラの使用人たちを驚かせたのは、普段なら一日中姿を見せない夏挽沅が、今日はずっと家で過ごしていることだった。昼食後には昼寝をし、午後になると、今度はまた別の本を読み始めた。それは、坊ちゃまの英語の入門書だった。
彼らは何度も自問した。これは、夢でも見ているのだろうか、と。
夕暮れが近づく頃、英語の入門書を読み終えた夏挽沅は、キッチンへと向かった。
李さんは、夏挽沅が読んでいた本の厚みをこっそりと盗み見た。あらまあ、ずいぶんとまあ、ご立派な見せかけだこと。あんな分厚い本を、半日で読めるもんですか。
「お嬢様」めったに厨房に足を踏み入れない夏挽沅がやって来たので、使用人たちは内心びくびくしていた。この気まぐれなお嬢様が、また何か騒ぎを起こすのではないかと。
「薄味にしてください。それから、坊ちゃまに茶碗蒸しを」
「かしこまりました、お嬢様」
その頃、幼稚園の門の前では、林靖が寄越した運転手たちが、宝ちゃんと睨み合っていた。
「坊ちゃま、旦那様より、今夜はご自宅にお戻りになり、ご一緒にお食事をとのご命令です。さあ、我々と」
しかし、宝ちゃんは守衛場のドアに必死にしがみつき、小さな唇をきゅっと結んでいる。帰りたくない。ママと一緒にいるんだ。
運転手たちはほとほと困り果てた。無理にでも連れて行こうとすると、責任感の強い門番の老人が、まるで人攫いでも見るような警戒心に満ちた目で、宝ちゃんの前に立ちはだかる。
その時、夏挽沅が寄越した迎えの車が到着した。昨日の運転手だと気づいた宝ちゃんは、ぱっと目を輝かせ、窓の外を指さした。「見て!UFO!」
全員が無意識に窓の外を見た、その隙に。宝ちゃんはランドセルを抱えて人垣の間をすり抜け、叫んだ。「パパに伝えて!僕はママと一緒に住むからって!」
夏挽沅の運転手が門を入る間もなく、飛び出してきた坊ちゃまに袖を引かれ、あっという間に車の中へと引きずり込まれた。
「早く、戻って!」
何が起きたのか分からない運転手は、坊ちゃまが何か大変な事件に巻き込まれたのだと勘違いした。脳裏に誘拐事件の光景がよぎり、ぞっとする。彼は、出せる限りの最速でアクセルを踏み込んだ。
林靖が寄越した運転手たちが追って外に出た時、目の前に広がったのは、もうもうと立ち上る排気ガスだけだった。
「ママ!」
車を降りるなり、宝ちゃんは庭で待っている夏挽沅の姿を見つけた。途端に嬉しくなって、夏挽沅の方へと駆け寄っていく。ママは、やっぱり嘘をつかなかった!
「いい子ね。手を洗って、ご飯にしましょう」
宝ちゃんの手を引き、二人は笑い合いながら家の中へ入っていく。昨日の一件を経て、使用人たちはもう、この光景にはほとんど慣れてきていた。
宝ちゃんは手を洗い終えると、行儀よくテーブルにつき、夏挽沅がおかずを取り分けてくれるのを待っている。テーブルの上の料理を見て、うっ、と顔をしかめた。大嫌いなニンジンがある。
でも、ママがそのニンジンをよそってくれた!うーん、と宝ちゃんは眉をひそめ、それでも意を決してニンジンを口に運んだ。ママがよそってくれたものなら、食べる!
その健気な様子に、夏挽沅の目元に柔らかな笑みが広がった。
母子が楽しそうに食事をする中、玄関に人が立っていることに、二人はまだ気づいていない。
しかし、李さんたちはとっくに気づいていた。驚きのあまり固まり、挨拶に伺おうと身構える。
夏挽沅も、ようやくただならぬ気配に気づき、玄関の方へ視線を向けた。
夏朝の皇族は、皆優れた容姿を持っていた。だが、皇室の数多の美男子を見慣れた夏挽沅の目から見ても、目の前に立つ男は、ずば抜けて端正な顔立ちをしていた。
見目麗しいだけの人間ならば、いくら美しくとも、人を惹きつける魅力に欠けるものだ。
ところが、ドアの前に立つ男は、非の打ち所なく仕立てられたスーツを纏い、その完璧な身体の線を浮かび上がらせていた。精緻な彫刻を思わせる顔立ちは、きりりとこめかみまで切れ上がった眉と、高く通った鼻筋を持つ。そして、全てを見透かすような深い眼差しは、人の上に立つ者だけが纏う、絶対的な威圧感を全身から放っていた。
かつて帝の後見として国を導き、夏朝の実質的な権力者であった長公主の夏挽沅でさえ、内心で感嘆せざるを得なかった。なんと、凄みのある男だろう。
脳裏の記憶によれば、目の前のこの人物こそ、元の持ち主が18歳の時に大胆にも薬を盛り、妊娠を盾に結婚を強いた相手、君家の現当主、君時陵に違いなかった。