坊ちゃまは帰らない

「ママ、きれいにしたよ」

李さんに連れられて手を洗ってきた団子ちゃんは、ぴょんぴょんと跳ねるようにして夏挽沅の前までやって来た。その大きな瞳は、どこか不安げに夏挽沅をじっと見つめている。

今まで、ママと呼ぶとひどく嫌がられた。さっきのママはあまりに優しかったから、思わずそう呼んでしまったけれど、また前みたいに怒鳴られたらどうしよう。

そのか細い、頼りきった声と、瞳に浮かぶ怯えの色を見て、夏挽沅は優しく、そして安心させるように微笑んだ。「じゃあ、早くお母さんの隣へ来て、一緒にご飯を食べましょう」

「うん!わかった!」

宝ちゃんは、今度こそぱっと顔を輝かせた。その白くてもちもちした小さな手で、そっと夏挽沅の手を握り、隣の席にちょこんと座る。

「お肉も、お野菜も食べなさいね」

宝ちゃんはお椀に顔をうずめ、まるで小さなハムスターのように頬をいっぱいに膨らませながら、夏挽沅が取り分けてくれたおかずを夢中で食べた。

食卓の灯りの下、おかずをよそう夏挽沅の横顔は、穏やかで物静かだ。そこにいるだけで人の心を落ち着かせるような不思議な気品があった。その顔立ちがまったく同じでさえなければ、誰もが別人を見ているのだと錯覚したことだろう。

寄り添う大きな影と小さな影。その穏やかな雰囲気に、使用人たちは胸の内で深くため息をついた。坊ちゃまは金の匙を咥えて生まれてきたような御身分だが、旦那様は多忙を極め、夏お嬢様はまったく見向きもなさらない。実のところ、あの子は不憫な境遇にあったのだ。

今のように、屈託なく笑う姿こそ、3歳の子供のあるべき姿ではないか。

子供の食事量を見計らい、お椀一杯を食べ終えてお腹がいっぱいになったのを確認すると、夏挽沅は食器を下げさせた。

前世で人材を求めて各地を渡り歩いていた頃は、食事もままならず、胃を損ねるという悪癖が残ってしまった。そのため、王朝が再興し、暮らしが安定してからは、食後に散歩をするのが習慣となっていた。

先ほど家に入った時に見た限りでは、今住んでいるこのヴィラの庭は、前世の御花園と比べればあまりに小さいが、散歩をするには十分だろう。

「ご飯の後に少し歩くと、身体にいいのよ。お外を散歩して、帰ってお風呂に入って寝ましょう。いい?」

「うん!」

今の宝ちゃんなら、夏挽沅の言うことなら何でも「うん」と答えるだろう。その大きな瞳には、あふれんばかりの信頼が宿っていた。

宝ちゃんの頬を優しくつねってから、夏挽沅はコートを羽織り、宝ちゃんにも上着を着せてやる。そして、その小さな手を引いて庭へと歩き出した。

ヴィラの前庭は、サッカーコートほどの広さがあった。手入れの行き届いた花壇からは花の香りが漂い、時折、虫の音が聞こえてくる。

夏挽沅は宝ちゃんを連れて、ゆっくりと歩を進めた。頬を撫でる夜風が、心地よい。

宝ちゃんは、時々こてんと首を傾けて夏挽沅の顔を見上げる。その頼りきった視線を感じて、夏挽沅の心はふわりと温かくなった。彼女は宝ちゃんの手を引き、庭に置かれたブランコのそばまで行くと、その子を膝の上に抱き上げた。

「ママ、今日はお星さまが、いっぱいだね!」宝ちゃんは夏挽沅の胸に寄りかかり、ママから香る石鹸の匂いを胸いっぱいに吸い込んで、この上ない幸せを感じていた。

「ええ、本当に。あのお星さまが何か、知ってる?」

夏挽沅が指さす先で、ひときわ明るい星が、空の彼方で燦然と輝いている。

「知ってるよ、ママ。先生が教えてくれたもん。あれは北極星でしょ」

宝ちゃんは年の割に聡明だった。幼稚園に通うのは集団生活に慣れさせるためだが、普段は特別な先生がついて早期教育を受けている。そのため、同い年の子供たちに比べて物知りで、賢かった。

「じゃあ、北極星が誰の生まれ変わりか、知ってる?」

これには、宝ちゃんも答えられなかった。不思議そうに夏挽沅を見上げる。

「昔々ね、南極仙人と北極仙人という、とても仲の良い二人がおってな。ある日……」

空には星々がまたたき、庭の虫の音がそれに唱和する。夏挽沅は、かつて古い物語の本で読んだ奇妙で不思議な話を、辛抱強く宝ちゃんに語って聞かせた。

時間だけが、静かに流れていく。ひやりとした風が吹き抜け、少し肌寒さを連れてきた。

「もう遅いわ。お風呂に入らないと。おうちに入りましょう」

「うん!」宝ちゃんは、尊敬の眼差しで夏挽沅を見上げた。ママはすごい。何でも知ってるんだ。

立ち上がって家に入ろうとした、その時。玄関の方から、車の音が聞こえてきた。

夏挽沅は門の方へ振り返る。眉が、かすかに動いた。来るべきものが、来たようだ。

門が開き、車から降りてきたのは、眼鏡をかけた眉目秀麗な青年だった。庭に立つ母子の、手を繋いだ姿を認めると、彼の目に驚きがよぎったが、すぐに平静を取り戻し、足早にこちらへ向かってくる。

「夏様。坊ちゃまは明日も登園なさらねばなりません。そろそろお戻りいただかないと、明日に差し支えます。どうか、坊ちゃまの学業に支障が出ませんよう、ご配慮をお願いいたします」

林靖は夏挽沅の前で足を止めると、いつも通りの事務的な口調でそう告げた。だが、言い終えてからしばらく経っても、予想していた罵声が返ってこない。意外に思って夏挽沅に目を向けた瞬間、彼は思わず息を呑んだ。

庭の照明は薄暗い。先ほどは急いでいたため、この認められていない奥方の姿を、じっくりと見る余裕はなかった。

今、改めて目の前の人物を見る。化粧気のないその顔は、柔らかな光の下で完璧な造形に得も言われぬ趣を添えられ、優雅に、そして凛として佇んでいる。数多の美女を見慣れてきたはずの、社長秘書である彼でさえ、思わず感嘆するほどの美しさだった。

「……夏様?」

目の前にいるのは紛れもなく夏挽沅のはずなのに、彼は無意識にそう問いかけていた。まるで、目の前の人物が、自分の認識を根底から覆してしまったかのように。

「宝を迎えに来たのでしょう。私にではなく、この子にお聞きなさい」冷ややかで澄んだ声が響き、夏挽沅がようやく口を開いた。

「坊ちゃま?」林靖は胸中の疑念を押し殺し、顔に完璧な笑みを浮かべると、しゃがみ込んで宝ちゃんに問いかけた。

「帰りたくない。ママと一緒にいる」宝ちゃんは二、三歩後ずさり、夏挽沅の足にその腕でしがみついた。

奇妙な光が、林靖の瞳をよぎった。目の前の子供はまだ3歳だが、現在の君氏の唯一の嫡孫である。その発言力は、夏挽沅よりも遥かに重い。

坊ちゃまが夏挽沅に懐いている様子にひどく驚きはしたが、坊ちゃま自身が帰りたがらない以上、無理強いはできない。林靖はすぐに立ち上がった。

「では、お邪魔はこれくらいに。夏様、明日の朝、坊ちゃまの送迎をよろしくお願いいたします」

「ええ」夏挽沅は短く応じると、宝ちゃんの手を引いてくるりと背を向け、家の中へと戻っていく。

その後ろ姿を、林靖は目を細めて見送っていた。やがて彼も踵を返し、外へと向かう。車に乗り込むと、すぐさま携帯電話を取り出し、どこかへ電話をかけた。

家の中に戻ると、待ち構えていた李さんが、旦那様の懐刀である林特別秘書が来たにもかかわらず、坊ちゃまが連れて行かれなかったのを見て、胸中で算段を巡らせていた。もしや、この「奥様」の地位も、いよいよ盤石なものになるのでは?そう思うと、先ほどよりも遥かに恭しい態度になる。

李さんの態度の変化に気づきはしたが、夏挽沅は何も言わず、ただ宝ちゃんをお風呂に入れるよう言いつけた。

「お母さんもお風呂に入ってくるから、また後でね」

宝ちゃんは、夏挽沅の腕にぎゅっとしがみついて離れようとしない。

夏挽沅は困ったように笑い、宝ちゃんに向かって片目を瞑ってみせた。「早くお風呂に入っておいで。今夜は、お母さんが一緒に寝てあげるから」

「ほんと!?」宝ちゃんの目が大きく見開かれる。黒ブドウのような瞳が、きらきらと光を放った。ママと一緒に寝るなんて、一度もなかったのに!

「ママ、すぐ入ってくる!」夏挽沅の返事を待たず、宝ちゃんはすばしこく李さんの手を引いて、バスルームへと走っていった。

夏挽沅は無力に微笑み、二階あの寝室に上がり、身支度を始めた。

化粧台の上にずらりと並んだ無数のボトルやジャーを、夏挽沅は一つ一つ吟味するように眺めた。それらのスキンケア用品を肌にのせると、肌が潤い、引き締まっていくのを感じ、心の中で驚嘆する。

どの時代であっても、美を愛さない女はいない。湯浴みを終え、ゆっくりと手順通りに肌の手入れを済ませて部屋を出ると、宝ちゃんはとっくにベッドの上で待っていた。

湯気でほんのり上気した小さなお団子ちゃんは、全身が薄紅色に染まっている。ふわふわの髪からは、ぴょこんと数本、癖っ毛が跳ねていた。大きな瞳が、しきりにドアの方を気にしている。

「ママ!」

ついに夏挽沅の姿がドアの向こうに現れると、宝ちゃんの顔がぱっと輝いた。白くてもちもちした腕を、夏挽沅に向かって何度も振っている。

「おいで、お母さんが抱っこしてあげる」

夏挽沅は笑みを浮かべ、布団をめくると、ミルクの香りがする宝ちゃんを腕の中に抱き入れた。柔らかく温かい小さな塊が、夏挽沅の母性をすっかり呼び覚ましてしまう。

「今日は、幼稚園で何をしたの?」夏挽沅は自分の弟妹を育てた経験から、子供の日常を知ることが、心を通わせる上でどれほど大切かを知っていた。

「今日の朝、先生がお歌を教えてくれたの。それから、詩も読んだんだよ……」宝ちゃんは興奮した様子で夏挽沅の腕の中に横たわり、園での出来事を夢中で報告した。だが、話しているうちに、その声はだんだんと小さくなっていく。

声が聞こえなくなり、夏挽沅がそっと視線を落とすと、腕の中では、小さな柔らかな塊が、すうすうと安らかな寝息を立てていた。夏挽沅は、思わずその額に、優しいキスを一つ落とした。