君時陵の反感に気づいた夏挽沅は無関心だった。彼女は、表面的には華やかだが実際には非常に深い水に潜む君奥さんの地位に興味はなかった。
前世で政治の泥沼の中で這いずり回ってきた彼女は、どれだけ高い地位に立てば、それだけ大きな責任を負わなければならないという道理をよく知っていた。
やっと波乱に満ちた権力の中心から離れることができた今、彼女はただ安らかに千年後の生活を体験したいだけだった。
「旦那様」書斎から不機嫌な顔で出てきた君時陵を見て、使用人たちは息を殺した。恐る恐る、その顔色を窺う。
本名を君胤、愛称を宝ちゃんという団子ちゃんが、夏挽沅が用意したクマさんのパジャマを着て、よちよちと君時陵のそばに寄ってきた。
湯気で全身がふわふわになった自分の縮小版を見て、君時陵の周りの冷たい空気はようやく少し散った。
「服を着替えなさい。父さんと帰るぞ」
その言葉に、団子ちゃんはびくりと身を縮こませ、ふっくらした頬をきゅっとしかめた。「パパ、ママといっしょにいたい」
「……いい?」丸い瞳が、懇願するように揺れている。君時陵は、有無を言わさず連れ帰るつもりだった。だが、その潤んだ眼差しを見てしまうと……
ふと、幼くして両親を亡くした自分の過去が脳裏をよぎった。祖父に育てられたとはいえ、両親の温もりを知らず、ただ孤独の中で冷たく育った。あの感覚は、一人の子供にとっては、あまりに残酷なものだ。
君時陵は唇をきつく結び、そして、折れた。「……早く寝て、早く起きるんだぞ。わがままは言うな。週末、曾祖父様の家に迎えに来る」
「ほんと、パパ!やったあ!」ついに君時陵の許しを得て、団子ちゃんは嬉しそうにぴょんぴょんと跳ねた。短い足を興奮気味に動かし、とてとてと二階の夏挽沅のもとへ、一緒に寝ようと駆け上がっていく。
クマの寝間着を着てぴょんぴょん跳ねる姿を見て、君時陵の瞳に一筋の暖かさが染み込んだが、すぐに堅い氷に覆われた。
どうあれ、夏挽沅は君胤の生みの母親だ。子供が彼女に懐くのは自然なことだろう。もし彼女がこのままおとなしくしているのなら、離婚の際に、慰謝料に上乗せして手切れ金を渡すことも考えてやろう。
君時陵は部屋を見回した。温かな色の照明、ソファの上には宝ちゃんが置いたのだろう、ホホジロザメのリュックサック。テーブルには、半分ほど読み進められた『嵐が丘』と、まだ水滴の光る苺が盛られた小皿。
少し散らかっていたが、この部屋は不思議と彼に温かさを感じさせた。君時陵は頭の中の考えを振り払い、ドアの外に出ると、激しい闇が彼を夜の中に飲み込んだ。
車がヴィラを走り去る頃、二階の寝室からは、夏挽沅が物語を読み聞かせる声が、静かに響いていた。
夜の静けさは温かい人々を守るが、同時に数多くの悪意も闇で覆い隠す。
「阮さん、あの夏挽沅、やっと引きずり降ろされたわね。あんな大根役者に、主役が務まるわけないじゃない。夏家も破産したことだし、これからどうやって威張り散らすのかしらね」
市の中心にある高級マンションで、夏挽沅と役を交換した阮瑩玉がマネージャーと電話で話していた。
以前、夏挽沅は自分の家が金持ちだということを盾に、傲慢に振る舞い、さらにこのドラマ制作に大金を投資したことで、制作側から主役の座を与えられた。
阮瑩玉は夏挽沅と同じ年にデビューし、演技力は夏挽沅より少し上だったが、常に夏挽沅に押さえつけられ、心の中にはかなりの不満が溜まっていた。
けれど、天はちゃんと見ていた。夏家はついに破産し、自分は会社の力添えで、まんまと夏挽沅と役を交換することができたのだ。
「ふふ、かつて私から役を奪ったこと、後悔させてあげる。この最後の作品、一生忘れられない思い出にしてあげるわ」
元々清楚だった顔が恨みで少し歪んでいた。電話を切り、微博を開いて『長歌行』制作チームの最新の投稿を転送し、一行の文字を打ち込んでから、携帯を閉じ、赤い唇を上げ、ネット上の是非には関わらなかった。
しかし、この時、ネット上ではすでに小規模な波が起きていた。
人気小説の映像化は、現在の映像業界で主流のビジネスモデルだ。『長歌行』も、そうした小説を原作としている。
ごく普通の青年が、様々な奇縁によって秘伝の武功を習得し、天下にその名を轟かせる。世の不正を正し、ついでに愛を語り合うという、王道の物語だ。
しかし、作者の優れた筆致と、緻密に練られた物語によって、この小説は熱狂的なファンを数多く獲得していた。
周知の通り、小説が映像化される際には、多くの原作ファンから反発を受けるものだ。
しかし、この作品に対する反発は、まさに天変地異と呼ぶべき規模だった。原因はただ一つ、ヒロインを演じる夏挽沅、その人にあった。
夏挽沅はデビュー当時、絶大な人気を誇っていた。多くのファンを惹きつけたのは、何と言ってもその類稀な美貌だ。
綺羅星のごとくスターがひしめく芸能界においても、夏挽沅の容姿は群を抜いていた。時折見せる「お姫様」キャラも相まって、ファンは増え続け、若手トップ女優への道は約束されたかに見えた。
だが、良い時間は長くは続かない。会社が必死に隠してきた夏挽沅の傲慢で横暴な本性が、すぐに露呈したのだ。CM契約の横取り、同業者への無礼な態度、インタビューでの放言。
信頼を積み上げるには長い時間がかかるが、崩れ去るのは一瞬だ。ましてや、夏挽沅の場合は、もはや小さな亀裂では済まなかった。千里の堤も蟻の一穴から、というレベルではない。
その結果、かつてのファンは瞬く間にアンチへと転向した。だが、夏挽沅自身が強力なスポンサーであったため、ファンがいなくなっても、なお金に物を言わせて役を買い続けていたのだ。
役は手に入ったが、夏挽沅のそうしたやり方は、業界中の怒りを買った。彼女が出演する作品には、必ずアンチが雲霞のごとく集まった。
夏挽沅が『長歌行』で目をつけたヒロイン役は、純真無垢で世間知らず、だが心優しく、主人公やファンから絶大な人気を誇る、いわゆる「天然系ヒロイン」だった。
現実での夏挽沅のあの悪女っぷりを思えば、原作ファンたちが制作会社の公式SNSを大炎上させたのも無理はない。「あの夏挽沅が純真な少女役だぁ?」「監督の目は節穴かよ!」といった罵声で溢れ返った。
原作ファンからの猛攻撃を受け、制作会社の公式アカウントは長いこと沈黙を貫いていた。数日ぶりに更新された投稿には、瞬く間に人々が殺到した。
「『長歌行』制作委員会です。皆様からの多大なる関心に感謝申し上げます。制作上の都合により、キャストの一部変更について以下の通りお知らせいたします。ヒロイン・田桜児役:阮瑩玉、助演・沈佩役:夏挽沅。皆様の変わらぬご声援を、心よりお願い申し上げます。詳細は追って公式SNSにてご報告いたします」
当初、夏挽沅が金でヒロイン・田桜児役の座を買ったというニュースが出た際は、彼女は散々叩かれた。今、ヒロインが以前から待望されていた阮瑩玉に変更されたのを見て、多くの人々が快哉を叫んだ。
兎と大根:「制作陣、やっと目が覚めたか?夏挽沅みたいな悪女に、うちの純真で可愛い桜児ちゃんが務まるわけない!」
瑩ちゃん推し:「わー!阮瑩玉ちゃん、清純で可愛くて、役にぴったり!最高の桜児ちゃんを演じてくれるって信じてる。楽しみ!」
ユーザー18767678:「夏家、マジで終わったんだな!ザマァ!あんなクソ女を育てるような家族がいいわけねーだろ。祝・芸能界から害悪が一人消滅」
このコメントで、数日前の夏家破産のニュースを皆が思い出し、同意のコメントが殺到した。これでようやく、芸能界も夏挽沅の毒牙から解放される、と。
ただのゴミ:「あの、すみません…ヒロインじゃなくなったけど、代わりに気高くて絶世の美女、天霊姫の役になったってこと、忘れてません…?泣いた!」
そう、『長歌行』には、重要な女性キャラクターが二人いた。一人は、心優しく、多くのファンを持つヒロイン。
そしてもう一人が、主人公に想いを寄せる天霊姫。身分は高く、その美しさは天下に鳴り響き、主人公への愛は手に入らないと知るが故に気高く、それでいて内に秘めた脆さを持つ。彼女もまた、非常に魅力的なキャラクターであり、多くのファンがついていた。
このコメントで、皆はっと我に返った。夏挽沅の魔の手はヒロインを逃れたが、今度は助演女優に向けられたのだ!
途端に、人々は一斉に夏挽沅を罵り始めた。「一生アンチになる」と宣言し、様々な人格攻撃が、洪水のように夏挽沅のSNSアカウントに押し寄せた。
そして、彼女のアカウントに乗り込んでみれば、最新の投稿は「世界限定モデルの新作バッグ買った♡」という自慢話。これが一部の人々のルサンチマンに火をつけ、罵声はさらに激しくなった。
ネット上で渦巻く嵐に、夏挽沅は気づいていなかった。もっとも、たとえ見ていたとしても、どうということはなかっただろう。しょせん、ネットの上で鬱憤を晴らしているに過ぎない。かつて彼女が戦場で見てきた、本物の屍山血河に比べれば、こんなもの、何だというのだろうか。