翌日、団子ちゃんと朝食を終え、幼稚園へ向かう車を見送ると、夏挽沅の胸に一抹の寂しさがよぎった。
昨晩、君時陵と3ヶ月後に離婚することを約束したが、君家が子供の親権を彼女に渡すことは絶対にあり得ないだろう。しかし、現代社会は昔よりもずっと文明的になっている。
昔なら、女性が離縁された後は自分の子供と二度と会う機会はなかったが、今は「休妻」という言葉もなくなり、離婚しても彼女は子供の母親であることに変わりはない。これが彼女がそんなに早く同意した理由でもあった。
携帯電話を取り出すと、真っ赤なアイコンに「99+」の通知が表示されている。この2日間、家から一歩も出ていなかったが、かつての遊び仲間たちから大量のメッセージが届いていたのだ。
夏挽沅は軽度の強迫観念を持っていた。彼女は庭のブランコに座り、一つ一つメッセージを開いては、不要なものを削除し始めた。
よし、これで全部。すっきりした。
夏挽沅は画面の一番上にある検索窓に「林」と一文字打ち込んだ。すると、スーツ姿がりりしい、エリート然とした男のアイコンが一つ、現れた。
夏挽沅は特殊な立場にあり、君家との連絡は避けられなかったが、君時陵は彼女と直接やり取りする気が全くなく、多くの事項は林靖が夏挽沅との連絡を担当していた。
トーク画面を開き、夏挽沅は一行のメッセージを打ち込んでいく。まだ携帯電話の操作に慣れていないため、文字を打つ速度は少し遅い。
会議を終えたばかりで、会議の記録を整理して君時陵に確認してもらおうとしていた林特別秘書の個人用WeChat(微信)がぴこん、と鳴った。
林靖は脇に置いてあった携帯を手に取ったが、そのメッセージを見て書類を整理する手を止めた。
「都心に用意してくださるというマンション、今から住むことは可能でしょうか?手配をお願いします。ありがとう。」
メッセージの送り主には、はっきりと「夏挽沅」と表示されている。
林靖は眼鏡の位置を直し、文末の「ありがとう」という二文字を見て、しばし固まった。次いで、その口元に、どこか得体の知れない笑みが浮かぶ。
彼はファイルを閉じると、社長室へと向かった。
夏挽沅は、また外で飲み食いしようと誘ってくるいくつかの電話を無視すると、運転手を呼んだ。
前回クローゼットを探した時に気づいたのだが、元の持ち主の服装のスタイルは派手すぎて、彼女が着られる服はほとんど見つからなかった。どうせまだ撮影が始まっていないので、買い物に出かけようと思った。
元の持ち主の記憶によれば、この時代は服飾店が至る所にあり、様々な美しいデザインの服が豊富に揃っていた。おそらくここの平和で穏やかな生活が彼女をリラックスさせ、女性として生まれ持った美を愛する感情も刺激されたのだろう。
元の持ち主がちょっとした有名人で、しかも評判の悪い有名人だったことを考慮して、夏挽沅は李さんにマスクを持ってきてもらい、帽子をかぶって、運転手に天府井まで連れて行ってもらった。
さすが華国の有名なショッピングスポットだけあって、夏挽沅は人が比較的少ない通りをゆっくりと歩いた。彼女が知らなかったのは、この辺りの人が少ないのは服の価格が高いからで、ショーウィンドウに並ぶ鮮やかで多様な服が夏挽沅の興味を引いた。
夏挽沅は、ひときわ雅やかな雰囲気の店を見つけて中に入った。店員は、彼女がマスクをしていて顔は見えないものの、その身につけているブランド品と優雅な立ち居振る舞いから、大口の客だとすぐに察した。満面の笑みをたたえ、すぐさま駆け寄ってくる。
こうした高級ブランド店は客が少ないため、ほとんどすべての店員が夏挽沅の周りを取り囲み、熱心に様々な服を勧めてきた。
夏挽沅も断ることなく、自分が美しいと思った服を片っ端から試着していく。彼女は均整の取れた体つきをしており、生まれながらの着こなしの天才だった。ただでさえ美しい服が、彼女の身体を纏うと、さらにその輝きを増した。
「これを全部、いただくわ」ようやく試着を終える頃には、2時間が過ぎていた。会計の際、夏挽沅は長い間使っていなかった一枚のカードを取り出す。
使わなければ損だわ、と夏挽沅は思った。どうせこれは、君時陵が彼女に渡したカードなのだから。
ブティックでカードが決済された瞬間、君時陵の携帯電話にもショートメッセージが届いた。「お客様のカード(下三桁***)にて、天府井でのお買い上げ、32万元のご利用がございました」
このカードは、当初君時陵が夏挽沅に生活費として渡したものだった。だが、毎月の支給額がさほど多くなかったため、自分自身で金を持っていた夏挽沅は、一度もこのカードを使ったことがなかった。数年間積もり積もって、カードの残高は数百万元に達している。
夏家は今本当にそんなに貧乏になったのか?しかし、この女はやはり相変わらずお金を使うのが好きだな。ここ数日の彼女の振る舞いは、結局は見せかけだったようだ。
しかし、なぜか君時陵の脳裏には昨晩の夏挽沅の水のように澄んだ瞳が浮かび、心が冷たくなるような感覚があった。
君時陵は眉をひそめ、携帯を閉じ、思考を払いのけた。あの女がどうなろうと、自分には関係ない。
午前中ずっと動き回って、夏挽沅もお腹が空いてきた。服飾店を出て、彼女は携帯を取り出してナビを確認し、隣の美食街に曲がった。
ちょうど昼食の時間で、様々なレストランの看板が街中に立ち並び、様々な美食の香りが絡み合って鼻孔に入り込み、食欲をそそった。
夏挽沅はゆっくりと歩く。顔を厳重に隠しているため、彼女だと気づく者はほとんどいない。だが、歩くたびに揺れる、青い蓮の花のような気品ある佇まいは、道行く人々を何度も振り返らせた。あのマスクの下には、どれほどの天女のような顔立ちが隠されているのだろうかと。
とある店の前に、ひときわ多くの人が集まり、賑わっているのが見えた。濃厚な香りが店の中から漂ってきて、夏挽沅の食欲を強く刺激する。
迷わず、その店の中へと足を踏み入れた。入り口に掲げられた看板には、華国全土に展開する有名なチェーン店の名――OO黄金親子丼と書かれていた。
帝都の繁華街にあるためか、大衆向けの店でありながら、店内は清潔に整えられている。2階建てのフロアは、木の温もりがあるテーブルと椅子で埋め尽くされ、客足が絶えない店内には、食欲をそそる香ばしい匂いが立ち込めていた。
夏挽沅は他の人に倣って店の看板メニューを注文し、2階の窓際の席に座った。ウェイターが食事を運んできてから、ゆっくりとマスクを外した。
その頃、君氏コーポレーションのオフィスでは、君時陵が携帯電話の通知を見て、しばし呆然としていた。通知には「黄金親子丼、OO元」の決済情報。――これは、己の地位を誇示するためなら、一食に豪華絢爛なフルコースを並べさせることさえ厭わなかった、あの夏挽沅か?
もちろん、そんなことを夏挽沅は知らない。彼女は、目の前に運ばれてきた、土鍋でぐつぐつと煮える親子丼を見つめていた。
鶏肉は柔らかく、濃厚な割り下が染み込んでいる。数個の椎茸と青ネギが彩りを添え、立ち上る湯気が食欲をそそった。
夏挽沅はこれまで、山海の珍味も、残飯の固いパンも食べてきた。今、現代の活気ある街の料理を前にして、食欲がむくむくと湧き上がってくる。
箸で肉を一切れつまんで口に入れ、すかさずご飯を一口送る。出汁の濃厚な旨味が口の中に広がり、ご飯と鶏肉が絶妙な調和を生み出す。夏挽沅は夢中で食べ進め、その目元には満足そうな笑みが浮かんでいた。
彼女は気づかなかったが、喧騒の中、彼女から4テーブル離れたところで、ある少女が好奇心を持って彼女を見ていた。
「ねえ、見て。あの人、もしかして芸能人じゃない?」丸顔の少女が、連れの肩を肘でつついた。
連れの少女は、言われた方向に興味本位で目をやり、そして、はっと息を呑んだ。「うそ、あれって夏挽沅じゃない!?なんでこんな所にいるの!?」
彼女たちが驚くのも無理はない。夏挽沅といえば、いつも豪邸や高級宝飾品といった話題と共に現れる存在だ。まさか、こんなにも庶民的な場所で彼女を見かけることになるとは、誰が想像しただろう。
「本物かなあ?」丸顔の少女はまだ半信半疑だ。
「百パー本物だよ!私、アンチになる前は、しばらく夏挽沅のこと推してたんだから」
さらに、彼女が言わなかったことがある。向こうの人があんな風に美しいなんて、夏挽沅以外に誰がいるだろう。もし道ですれ違う人みんながこんなに美しかったら、それはあまりにも落ち込むことだ。
「夏家って、破産したんでしょ。お金がなくて、こういうのしか食べられなくなったのかな」
「さあ、どうだろ。私たちには関係ないけど……それにしても、美味しそうに食べるね。私たちのご飯、まだかなあ」
ネット上では、彼女たちも周りに流されて夏挽沅を罵ったことがあった。当然、良い印象はない。それにしても、夏挽沅が食事をする姿を見ていると、なぜか不思議な好感を覚えてしまう。
すごく綺麗。それに、すごく美味しそうに食べる。
誰かが自分を見ていることに気づき、夏挽沅は箸を置き、前を見ると、二人の少女が好奇心を持って自分を見ていた。
二人の目に悪意がないことを見て取った夏挽沅は、彼女たちに微笑みかけ、それから頭を下げて最後の数口を食べ終えると、立ち上がって去る準備をした。
その二人の少女は突然夏挽沅の笑顔を見て、まるで無数の霜の花が目の前で咲き誇るような感覚を覚え、夏挽沅が立ち上がって去るまで反応できず、急いで携帯を取り出して写真を一枚撮った。
夏挽沅の後ろ姿が階段に消えていくのを見送り、丸顔の少女は「ひっ」と息を呑んだ。「……性格は悪いって聞くけど、マジで綺麗すぎない?」
「それは、認める」かつてファンからアンチに転向した連れの少女も、同じ気持ちだった。もし、夏挽沅の悪評がこれほど酷くなければ、今の微笑み一つで、またファンに戻ってしまったかもしれない。綺麗な人が嫌いな人なんて、いるだろうか。
「ていうか!私たちのご飯、まだ!?お腹すきすぎて死にそう!」
夏挽沅は食事を済ませ、スナック店に行って、ネットで見た現代の若者がよく食べるというスナックをいくつか買い、それから車に乗って丘の中腹にある別荘に戻った。
その結果、君社長の、普段は鳴ることのない私用の携帯電話に、午後からピコン、ピコンと何件も通知が届くことになった。タピオカミルクティー、20元。エッグワッフル、5元。フランクフルト、5元。
君時陵は、通知を見れば見るほど、訳が分からなくなった。なんだ、この滅茶苦茶な買い物は。夏挽沅の趣味でこれらを食べるとは到底思えない。とすれば、子供が好きそうなジャンクフード……まさか、君胤に買い与えたのか?そう思った途端、彼の眉間の皺が、さらに深くなった。
午後の仕事を素早く処理し、林靖に電話して当初予定されていた夜の会議をキャンセルさせると、君時陵は上着を取り、運転手を呼んで夏挽沅の住まいへ向かわせた。
運転手は、二日連続でこの指示を受けたことに、内心ひどく驚いていた。旦那様は、あの夏さんをあれほどお嫌いだったはずだ。これは、一体どういう風の吹き回しだろう。一日たりとも我慢できず、あちらへ向かわれるとは。
頭の中では無数の筋書きが駆け巡っていたが、表情には一切出さない。運転手は車を滑らかに発進させ、郊外へと向かった。