晴れた火曜日の午後だった。
ほとんどの家庭が空っぽになりがちな時間帯。住人たちは仕事に出かけているか、夕食の食材を買いに行っている頃だろう。
そんな中、地方都市・東京のある繁華街に、古びた三階建てのアパートが一軒あった。一階はコインランドリーに改装されており、今もお客の出入りが絶えない。
蓮はそれを遠くから見ていた。二ブロック先、近くのホテルの屋上から——高さは四階ほど。
暗殺任務において、彼が最初に行うのは、与えられた情報の確認だった。というのも、情報のすべてが信頼できるとは限らない。中には偽造されたものや、でっち上げられたものもある。しかし、今回の依頼は少し事情が違った。
そもそも、ターゲットの名前と住所以外、一切の情報が与えられていなかったのだ。
蓮には、標的の顔すら分からなかった。行動パターンも、生活スケジュールも、不明のまま。
だが、死人のような目をしていても、蓮は辛抱強かった。
彼は建物のすべてを観察した。出入りするすべての人物を目で追い、その身元や背景までも徹底的に洗い出した。一人たりとも見逃すことはなかった。
彼は店が開く前からずっと張り込んでおり、今ようやく、標的が誰かを確信した。
現代風の洋服を着た、背の高い女性。だが、その服装はどこか時代遅れに見えた。腰まで届く鮮烈な炎のような深紅の髪。雪のように白く、不自然なほどに透き通った肌。彼女の名前——紅(くれない)に、まさに相応しい容姿だった。
しかし、容姿が分かったとはいえ、それ以上の情報は得られなかった。
「不法滞在者か?あるいは…異邦人か?」
蓮はそう呟きながら、双眼鏡を下ろした。
SNSから国家データベースに至るまで、ありとあらゆる手段で彼女の身元を調べたが、まったくヒットしなかった。つまり、二つの可能性しか考えられない。彼女も蓮と同じく社会の闇に生きる存在か、もしくは最初から日本国民ですらないのか——。
蓮は思考を巡らせていた。
この依頼は、最初から奇妙だった。しかし、調べるほどにその奇妙さは増していった。特に、依頼人に関して——いや、「依頼人が不明」だという点において。
ブローカーである吉野でさえ、どこから来た依頼か把握できていなかった。ただ、前金は確実に支払われていた。それゆえ、蓮も吉野もこの依頼を無視するわけにはいかなかった。
「嫌な予感しかしないな…」と蓮は呟き、荷物をまとめながらため息をついた。「…まあ、俺はただ仕事をこなすだけだ」
標的の顔は掴んだ。身元も調べた。行動パターンもある程度把握している。
「今夜…」
蓮は顔を上げ、雲ひとつない空を見上げた。
「今夜で終わらせる」
ーーー
数時間後。太陽が地平線の彼方に沈みきった頃。
蓮はホテルを出て、裏路地を歩き始めた。監視カメラに映らない経路を選びながら——万が一の事態に備え、いくつものルートを事前に用意していた。
身に着けているのは、前夜とは微妙に異なるがほぼ同じ、炭黒のスーツ。そして手には、小型のブリーフケース。
やがて、目的地に近づく。
三階建てのコインランドリー。標的の「家」だ。
念のため、再度双眼鏡で建物を確認する。ナイトビジョンをオンにし、階層ごとにチェックしていく。
コインランドリーは既に閉店しており、照明も落ちていた。だが、ガラス扉越しに店内の様子は見える。一階は問題なし。
二階と三階にはいくつか窓がある。そこから中を覗くことができる。しかし二階は無人のようだった。照明も消えており、動きは見えない。
だが、三階に双眼鏡を向けた瞬間——蓮の目がわずかに見開かれた。
彼女がいた。
窓辺に立ち、どこかを見つめながら、不気味なほど静かに佇んでいた。風がその炎のような赤髪を揺らし、物憂げな表情をわずかに和らげているようだった。
「ターゲット確認」
しかし、蓮にとってそれ以上の意味はなかった。彼女は「標的」。それ以上でも以下でもない。
彼はすぐに路地へと身を潜め、女性の視線の届かない位置から、コインランドリーの裏口へと向かった。
到着までに数分もかからなかった。
裏手には強化プラスチック製のドアがあった。ノブは施錠されていたが、蓮にとっては問題なかった。
彼はテンションレンチとレイクピックを取り出し、鍵穴をいじり始めた。十秒も経たぬうちに、ドアは音もなく開いた。
蓮は音を立てぬよう、慎重に中へ入り、背後のドアを静かに閉める。足元にブリーフケースを置き、開く。
中にあったのは拳銃——南部式モデル60。ダブルアクションの回転式拳銃で、.38スペシャル弾を5発装填できる。警察にも支給されているほど、目立たぬ武器だった。
彼はシリンダーを開いて装填を確認し、カチリと音を立てて戻す。そして構えた。
動き出す。裏口から階段へ。慎重に、音を立てず、一歩一歩を静かに。
呼吸すら、羽音のように微細なものとなっていた。
人気がないのを確認し、彼は二階を飛ばして三階へと向かう。標的・紅の部屋は三階にある。
踊り場にたどり着くと左に曲がり、先ほどの窓の部屋へと向かう。木製のドア——二つ先の部屋だ。
迷いはなかった。動作は鋭く、確実。
彼はドアノブを掴み、片手で拳銃を前に構える。そして、軽く回してロックされていないことを確認した。
ゆっくりと、音を立てぬようドアを開ける。わずかな軋み音が響き、部屋のもう一人がその音に気づいた。
月明かりに照らされた、美しい横顔。
窓辺に立つ彼女は、侵入者を見つめた。唇がわずかに開き——やがて、細く微笑んだ。
「遅かったわね、斬崎(きりさき) 蓮(れん)」
鈴の音のような声で、彼女は囁く。
なぜ笑っている? なぜ蓮の名を知っている?
疑問が頭に浮かぶ。だが、蓮は揺らがなかった。彼の使命は一つ。迷うことはない。
彼は拳銃を前に突き出し、無言のまま引き金を引いた。
バン!
乾いた銃声が部屋に響き渡る。近隣住人に届くほどの大きさだ。蓮は確認した。弾は彼女の胸に命中していた。心臓——致命的な一撃。
血が滲み、真っ白な寝間着を染めていく。
「…?」
だが、蓮の眉がわずかに動いた。
撃たれたはずの彼女が——倒れない。
その唇には、微笑がそのまま残り、瞳は変わらず蓮を見つめていた。恐れではなく、どこか優しさを含んだ眼差し。
そのとき——蓮は理解した。
“何かがおかしい”と。
それも、致命的に。