サイレントバトル

高橋亮太は病院前のバス停に向かって一歩踏み出した。彼の手にある小さなデバイスが柔らかく震え、オンラインのバイクタクシーアプリケーションからの通知が画面に浮かび上がった。彼の視線は、最初に通知を送ってきたドライバーの動きにすぐさま引き寄せられた。高橋亮太は一言も発せず、その運転手に歩み寄って車に乗り込み、アパートに戻ることにした。

数分後、車は人けのない、苔むしたように見える古い墓地の向かいに位置するスディルマンのオフィス街で停まった。アパートに戻る前に、高橋亮太はまず昼食を買おうとしていた。

だが、その歩みは止まった。その瞬間、奇妙な記憶が彼の心をよぎった。まるで、かつて経験したことのある光景のように感じられた。

戦……墓地の真ん中に在る。静かだった。誰も通り過ぎず、誰も気づかない。

ためらいと好奇心が入り混じる中、高橋亮太は近づこうとした。しかし、その歩みは、彼の前に現れたある人物によって遮られた。

「さあ、息子よ、ついてきて…」老人が言った。その声は穏やかだったが、どこか権威を帯びていた。彼は背を向けて歩き出し、高橋亮太に戦場の近くまで来るよう身振りで示した。

そこに着くと、老人はこう言った。「落ち着け、息子よ。ただの練習だ。彼らは私の弟子たちだ。」

二人の人間が向かい合い、既に戦いの構えを取っていた。老教師はうなずき、静かに合図を送った。

「ああ、そうだ」老人は続けた。「この墓の番人であり、マヘサデワの校長でもある武術教授を紹介しよう。私の名前はサニム先生だ。君のような若者に出会えるのは嬉しい。君の身体に宿る気は、とても穏やかに感じられる。」

「高橋亮太です!」高橋亮太は丁寧に名乗った。

彼は二人の弟子たちを見つめていた。彼らの手のひらから、それぞれが武器を取り出した。一人は輝く赤い鎌を持ち、もう一人は同じ色をした米切り包丁に似た武器を構えていた。二人は間もなく互いに攻撃を開始した。空中で武器がぶつかり合い、鋭い火花が散った。

赤い鎌が相手の腰に向けて振り下ろされ、突然、攻撃的に伸びた。しかし相手は、その奇妙な武器の動きを読み取り、巧みに受け流した。その激しい衝撃で、二人は互いに跳ね返った。

すぐに彼らは防御の構えに戻った。彼らの武器は徐々に手の中で消え、まるで自らの身体に吸い込まれるように戻っていった。

その時、異変が起きた。

光が二人の身体を包み始め、虎のような輪郭を帯びた幻影が浮かび上がった。

しかし、戦いが続く前に、サニム先生が手を挙げた。

直ちに二人の弟子は動きを止め、ゆっくりと後退した。虎の光のオーラは次第に淡くなり、やがて消え去った。

彼らに別れを告げると、高橋亮太はその場を離れようとした。

「確かに、彼らの限界を知るために、ここに呼んだのだ」とサニム先生は彼に向き直りながら言った。「興味があるなら、この場所は君にも開かれている。」

高橋亮太はうやうやしく頭を下げ、静かに答えた。「光栄です。ただ、仕事を始めたばかりなので、まずは一つのことに集中したいんです。」

サニム先生はわずかに微笑んだ。「そうか。すべての道を一度に歩む必要はない。」

高橋亮太は丁寧にうなずき、「さようなら、サニム先生」と言った。

そして彼は振り返り、虎の光と武器の火花が頭から離れないまま、墓地を後にした。

彼は、以前に岡本武教授から渡されたファイルをもう一度開いた。ページをめくるたび、そこに記された細部の一つひとつを吸収しようとした。時折、彼の視線はアパートの五階の窓の外に向き、賑やかなジャラン・ビンタロ大通りのラヤを見渡しながらも、その光景は彼の内面の静寂とどこか切り離されているように感じられた。

この教訓は、単なる理論ではない。

高橋亮太は、いずれそれを実践に移す必要があると感じていた。彼は目を閉じた。息を抑え、ただ一点に意識を集中させる。

彼が注視していたのは、テーブルの上に置かれた一本の未開封のソーダボトルだった。

数秒の沈黙が流れた。

突然、ボトルが膨張し、破裂して中身がテーブルと床に飛び散った。高橋亮太は驚きに息を呑み、慌てて布を手に取って、いま起きたことを理解しきれないまま、後始末を始めた。

これは……本当に、自分の心が引き起こしたのだろうか。

その直後、アパートのドアが開いた。岡本武教授が食べ物の包みを持って入ってきた。

「やってみたのか?」彼は意味ありげな笑みを浮かべ、高橋亮太を見つめた。

そう――今この小さなアパートに住んでいるのは、高橋亮太である。ビンタロ大通りラヤを見下ろすこの場所は、ただの住まいではない。学びの場であり、鍛錬の場でもある。そしておそらく、それ以上の何かの始まりなのかもしれなかった。

……

翌日、高橋亮太は国家サイバー暗号局に戻った。今回は、彼はすでに自信を深めていました。彼は、スクリーンとケーブルでいっぱいの長い廊下を通り抜けました……デジタルのリズムで呼吸しているように感じられる、巨大なデータセンター。

ブリーフィングルームでは、すでに藤本海斗が真剣な表情で待っていた。

「次の訓練はもっと激しくなるだろう」彼は多くを語らず、そう言った。「私たちはデジタル戦場シミュレーションに入る。ここでは、予測できない状況の中で試練にさらされる。」

高橋亮太はうなずいた。この旅が始まったばかりであること、そして前途が容易ではないことを、彼はよく理解していた。

……

ブリーフィングの後、彼はシミュレーションルームへと招かれた。壁も床もLEDスクリーンへと姿を変え、近未来的な街並みが映し出された。車の轟音、サイレン、足音が重なり合い、仮想とは思えぬ臨場感を醸していた。

「ここでは、すべての感覚を研ぎ澄ます必要がある。迅速かつ正確な判断が命取りになる」と藤本海斗が釘を刺した。

高橋亮太は姿勢を整え、心を集中させた。与えられたシミュレーションミッションの遂行が始まった。素早く動き、攻撃を避け、防御を構築し、反撃を加える。その一連の動きの中で、彼の身体はアドレナリンに満たされ、まるでこれまでに習得したすべてが試されているかのように感じられた。

シミュレーションが終了すると、藤本海斗は満足そうに頷いた。

「よく成長している。だが、これはほんの始まりに過ぎないということを忘れるな。」

研修室の外で、山本博司が近づいてきた。

「困ったときや、もっと練習したいときは、遠慮なく言ってね」彼は穏やかに声をかけた。

高橋亮太は、自分のそばに頼もしい味方がいることを感じ、静かに微笑んだ。

……

カモフラージュと真実

藤本海斗は足早に階段を降り、一階下の五階にあるコントロールセンターへと向かった。その後ろを、山本博司と高橋亮太が同じ速さで追っていた。カイトの目は、部屋中央に設置されたコンピューター画面に注がれていた。そこでは、シニアプログラマーとフィールドスーパーバイザーが慌ただしく入力作業を続けていた。

「さて、拓藤良二、何を見つけた?」カイトが真剣な口調で問いかける。

「どうやら、標的の動きが捉えられたようです」拓藤良二は視線をそらさずに答えた。彼の指はキーボードの上で止まることなく動き続けていた。

「そうか……どれくらいの距離だ?」魁渡は画面に近づき、じっと見つめた。

「数日間の監視の末、同期デバイスはサーマルカメラを含む監視システムと正常に統合されました。しかし、最も重要なのは、セルラー識別ハックです。これは完全に作動しています。」

「すぐに目標位置をロックできるか?」

拓藤良二は言葉を発さず、さらにコードを打ち込み、決定操作を実行した。

「ワーラア……これを見てください、サー!」

彼は立ち上がり、画面のデータを加藤に示した。IPアドレス、住所、モバイル取引履歴、会話録音、ターゲットのデバイスに残されたデジタル痕跡まで、すべてが網羅されていた。画面の隅には、リアルタイムの位置情報が点滅していた。

「山本ヒロシ、高橋リョウタ、君たちも見ているな?ターゲットデータは、それぞれの端末に送信された。」

魁渡は口元をわずかにゆるめた。

「君たちの任務は一つ。命令が出るまで、動くな。」

二人は頷き、それぞれに届いた通知を確認した。高橋亮太の端末には、ターゲットの詳細が表示されていた。

名前:森隆二

通称:スイフトライオン

体重:六〇キログラム

身長:一七五センチメートル

年齢:一八歳

性別:男性

スキル:武装戦闘員

レベル:未確認

クラス:バイオエボリューション

山本博司のターゲットは、一人の少女だった。

名前:佐藤恵美愛

通称:イーグル

体重:四〇キログラム

身長:一六八センチメートル

年齢:一六歳

性別:女性

スキル:治癒能力者、武器ファイター

レベル:未確認

クラス:バイオエボリューション

補足情報によれば、この二人はしばしば共に行動しているという。最後に確認された場所は、ゲームファイターのエンターテインメントゾーンにある埋立島、「G島」だった。

空はまだ薄暗く、朝はその輪郭すら持たずにいた。Gアイランドの正門は固く閉ざされ、通行人は清掃員を数えるほどしかいなかった。この静寂は、偵察に適した空間を与えていた。

「高橋亮太、あの塔から観察してくれ」と山本博司が、島の中央にそびえる展望塔を指差した。

「わかった。正門方面から周囲を調べてみます」高橋亮太は簡潔に応じた。

二人は通信用のイヤホンを装着し、すぐに別行動を取った。だが、その足取りは不意に止められた。視線の先に、人の気配を感じたのだ。スケートボードを手にした少年を伴った、四人の成人男性がこちらに近づいてきた。

「お前、場所を間違えたんじゃないのか?」そのうちの一人が、ふざけたような口調で言った。

高橋亮太の目が細くなった。男たちの身体から、赤い光がにじみ出ていた。それは明らかに、体内エネルギーの発動だった。

彼は反射的に姿勢を整えようとした。

「待って、高橋亮太!急ぐな!」ヒロシが制止した。

彼らは「クラスター」の一員とは名乗らなかったが、明らかに普通の人間ではなかった。数秒のうちに、四人は圧縮空気による電波攻撃を繰り出してきた。

ヒロシは冷静だった。攻撃は彼の身体をかすめ、まるで目に見えぬバリアに弾かれるように消えた。彼の身体からは深い緑色の光が広がり、それが巨大な手のような形を取り、四人をまとめて捕らえた。

「誰が命じた?」ヒロシは歩み寄りながら問いかけた。

だが、答えが返る前に、空を横切るオレンジ色の光が走った。それは塔から塔へと移動しながら、かすかな軌跡を残していった。

高橋亮太からの信号を受けたヒロシは、即座に尋問を中断した。二人はその光を追い始めた。

数歩後、高橋亮太は光の痕跡が地下駐車場に向かっていることに気づいた。彼は静かに足を進めた。かすかなうなりが耳に届き、その奥に、パンクしたタイヤのバイクに腰掛ける背の高い男の姿があった。

男の目が黄色く光り、高橋亮太をじっと見据えた。

「ここで何をしている……?」

彼が答える暇もなく、男は突進し、何かを突き出してきた。高橋亮太はそれをかわしたが、衝撃で身体を押しのけられた。男の身体は徐々に変化し、やがて獅子の形へと変貌していった。

高橋亮太は歯を食いしばり、左腕に光の盾を形成した。橙色の爪が彼を捕らえようと迫った。二人の衝突の瞬間、火花が散った。

アドレナリンが身体を駆け抜け、高橋亮太の全身が銀色の光に包まれていく。拳を握りしめ……そして、

ブラーッ!!

爆発音が響いた。ライオンは後退し、空中に咆哮を響かせた。白い波動が炸裂し、高橋亮太を押し戻した。

いま、どうすれば……?彼は思った。

彼の手が光りはじめた。まばゆい黄色い光が、クリスの形を成していく。目の前のライオンは銀色の爪で応えた。二人は滑り込みながら、武器をぶつけ合った。

しかし、衝突が起こる直前……

「やめて!!」

濃い緑色の光が二人の動きを止めた。高橋亮太が振り返る。

「山本ヒロシ……?」

緑の光が彼らを隔てた。二つの武器はゆっくりと消えていく。

「私たちは、同じ側にいる」ヒロシは静かに、しかし揺るぎなく言った。

……

ヒロシは一歩近づき、手を差し出した。

「山本ヒロシです。私の同僚、高橋亮太です。岡本武先生からのメッセージを添えて来ました」

高橋亮太は、先ほどの衝撃で自らの腕に傷があることに気づいた。ヒロシはそっと手のひらを重ね、翡翠のような緑色の光を放った。彼らの傷は静かに癒えはじめ、やがて傷跡すら残らないほどになっていた。

「もう」ヒロシは短く言った。

ヨーロッパとアジアの血を引く茶髪の男、森隆二は、高橋亮太を真っ直ぐに見つめていた。

「森隆二です。岡本武教授の教え子の一人。彼が結成したチームは、すぐに動き出しそうです」

高橋亮太は沈黙を保っていた。ヒロシがここに追いついたということは、これまで追いかけていたターゲットはどうなったのだろうかという思いが脳裏をよぎった。

「山本ヒロシ、君が追いかけていたのは、本当に本物の狙いだったのか?」

「いや。ただのカモフラージュだった」ヒロシは穏やかに応えた。「もう矢を放ったけど、その姿はただ消えてしまったんだ」

リュウジは軽く頷いた。

「佐藤恵美さんに間違いない。彼女は僕のいとこです。いつも一緒に行動している。その光は、彼女の変装技術の一部だ」

「それじゃあ……」高橋亮太は問いかけた。

「彼女が今どこにいるのか、君は知っているのか?」

「運のいいことに、僕のアパートはここからそれほど遠くありません。一緒に来てください。エミのことについては、あとで詳しく話します」

彼らはそのまま、森隆二のアパートへと向かった。到着した高橋亮太は、部屋の中に広がる仮想世界のニュアンスを厚く織り込んだ空間に、しばし目を奪われていた。

「このデザイン、独特ですね。バーチャルリアリティの装飾配置がとても印象的です」高橋亮太は、率直な感想を漏らした。

「ああ、それはスポンサーからの贈り物なんだ。バーチャルリアリティ格闘技の大会で優勝したあと、彼らが僕のためにこの部屋を作ってくれたんだよ」リュウジは、ヘッドセットと壁の大型スクリーンを指差しながら語った。

「もしかしたら……これは本当のサイバーゲームなのかもしれない」高橋亮太は、そんな考えがふと脳裏をかすめた。

「やってみるか?」リュウジは笑みを浮かべて尋ねた。

「あぁ……次の機会にね、ハハ」高橋亮太は少し顔を赤らめて返した。

腰を下ろすと、ふたたび会話が続いた。

「さっきも言ったとおり、佐藤恵美は確かに僕のいとこです。僕たちの両親は兄妹だけど、一卵性の双子ではありません。彼らは今、ドイツに暮らしています。僕はここに残ることを選びました」

「それじゃあ……エミが今どこにいるのか、本当に知らないんだな?」高橋亮太が重ねて尋ねた。

「正確にはわからない。ただ、彼女は守りたい誰かに、自分のエネルギーの痕跡を残すことができるんだ。たとえその場に彼女が物理的にいなかったとしても、すべてを把握しているようだった」

高橋亮太はゆっくりと頷いた。彼の心は、まだ把握しきれていない登場人物たちの関係性の複雑さに触れ始めていた。しかし、ひとつだけ確かに感じ取れたのは、岡本武史教授が設計したチームが、徐々にその輪郭を見せはじめているということ。そして、その先にある、もっと大きな戦い……それは、いままさに幕を開けたばかりだった