「私の方が、あの人よりマシに決まってるじゃない!」長谷川千怜は、納得がいかない。「私と一樹お兄ちゃんなら、本当の兄妹なんだから。この番組に出るのに、これ以上ないくらいぴったりでしょ!」
自分が、どこの馬の骨とも知れない女に劣るというのか。
こんな話が外に漏れでもしたら、笑いものにされてしまう。
「あんたと一樹のアホ、二人分のIQを足したってゼロにもなりゃしないんだから。そんなのが二人で番組に出たらどうなる?視聴者は、おバカを見るのが好きなんじゃないんだよ」
「お母さん!」千怜は、屈辱に顔を赤らめた。「本当に私の母親なの!?」
……
同じ、その頃。朝から働き通しだった朝比奈初と長谷川一樹は、ようやく昼食にありついていた。
すべての料理が食卓に並ぶ。初は白米を二つの椀によそい、その片方を一樹へと差し出した。
「さ、食べて」
初が箸を手に取る。だが、一樹はまだ動こうとしない。その視線がテーブルに並んだ三品の料理をなぞり、瞳から光がわずかに消えた。
一樹は顔を上げる。初が、実においしそうに料理を頬張っているのが見えた。彼は、思わず眉をひそめる。
ちょうどその瞬間を、初に見られていた。
「どうしたの、食べないの?私が毒でも盛ったと疑ってる?」
一樹は答えなかった。彼はのろのろと箸を手に取ると、レタスの一切れを掴み、口の中へと運んだ。
シャキシャキとして、瑞々しい。――驚くほど、悪くない。
食卓に並んだ料理は、どれも見た目は悪くなかった。だが、彼女の料理の腕がどれほどのものか、見当もつかない。だから、彼はなかなか箸をつけられずにいたのだ。
だが、どうだ。彼女はただ料理ができるというだけでなく、その味は、予想をはるかに超えていた。
初は、じっと彼を見つめる。好奇心に満ちた声で尋ねた。「どう?」
一樹は、表情ひとつ変えない。あくまでクールに、言い放った。「まあ、悪くはない」
大したご馳走ではない。魚も肉も、ほとんどない。だが、これが今まで食べたどの食事よりも美味い、と長谷川一樹は思った。
デビュー以来、厳格な食事制限を自らに課してきた一樹だったが、この日に限っては、つい二杯目のご飯に手を出してしまっていた。
【やべえ、腹減ってきた。どうしてくれる】
【一樹の奴、箸が止まんねえじゃん。ほとんど一人で食い尽くす勢いなのに、よく『悪くはない』なんて言えたもんだなwww】
【他の二組に比べたら質素な飯だけど、なんか一番美味そうに見える。さっき食ったばっかなのに、また腹が鳴ってきた】
【義姉さんの前だと、一樹がただの従順な子犬みたいで草】
【その従順さも、どうせ演技だろ】
昼食後、初は皿洗いという名の重労働を一樹に託した。彼はそれを拒むことなく、台所で黙々と食器を洗い始めた。
……
夜。村人たちは、三組のゲストを晩餐へと招待した。歓迎の意を示すため、特別な出し物まで用意してくれているという。
篠田姉妹は、声楽と舞踊の経験者だ。歌って踊れる、まさにアイドルそのもの。何か一曲、と促されると、姉妹は息の合ったパフォーマンスを披露し、ゲストたちのための手本を示した。
斎藤央は俳優だ。歌やダンスは、彼の得意分野ではない。そこで彼は、姉の彩と共に、即席の漫才を披露し、会場を爆笑の渦に巻き込んだ。
【央くんの姉さん、素人なのにすごいな。漫才までできるとか、多才すぎる】
【佳子ちゃんと佳織ちゃんのダンス、もう一回見たい】
【漫才のできないイケメン俳優なんて、ただのイケメン俳優だ。うちの斎藤くんは、演技も漫才もできる。オーズの一員として、彼を誇りに思う!】
【ちょっと楽しみになってきた。一樹は、一体何をやるんだ?】
【長谷川一樹はいいよ、どうでも。それより、義姉さんの方に期待してる。一日見てて、彼女がマジで底知れない人だって分かったから。次は、どんなサプライズを見せてくれるんだろう】
【ははは分かる。俺も義姉さんに期待】
いよいよ初の番が回ってきた。彼女は席を立つ前に、隣に座る一樹へと視線を送る。「生意気な義弟くん、こっちに来て、ちょっと手伝って」
「…………」まさか、こんな大勢の前で、朝比奈初があのあだ名で呼ばれるとは。
「早く」と初が促す。
結局、一樹は不承不承ながらも舞台へと引きずり出され、初のパフォーマンスのための、便利な道具役に徹することになった。
「えー、皆さんの前で、お姉様方が素敵なダンスを見せてくださいました。そして、面白い漫才もありました。ですので、私は、ささやかな手品を一つ、披露させていただこうかと思います」
初は、観客席にいた村人から一本の紐と指輪を借り受けた。そして、一樹に紐の両端を持たせ、ぴんと張らせる。彼女の手には、借りたばかりの指輪が握られていた
「皆様、よくご覧ください。この指輪には、どこにも切れ目がありません」
観客に指輪を改めさせた後、初は、いよいよ本番へと入った。
「あんた、本当に手品なんてできるのか?」と一樹が訝しげに尋ねる。
「喋らないで」初は、ぴしゃりと彼の手を叩いた。「しっかり掴んでなさい。絶対に、離しちゃだめよ」
彼が、本当に、固く紐を握っていることを確かめる。そして、初は指輪を紐へと近づけた。――次の瞬間。彼女の手にあったはずの指輪が、紐の真ん中に、すっと通っていたのだ。
一番近くで、その全工程を見ていたはずの一樹でさえ、何が起こったのか全く理解できなかった。
最前列に座っていた村人たちから、感嘆の声が上がる。一瞬の出来事だった。初が何をしたのか、誰の目にも捉えられなかったのだ。
観客の好奇心が高まっているのを見て、初は無作為に村人の一人を舞台へと招き、一樹の代わりに紐を持たせた。そして、もう一度、同じ手順を繰り返してみせた。
会場は、割れんばかりの拍手に包まれた。
コメント欄も、また、熱狂のるつぼと化していた。
【この義姉さん、伊達じゃないな……】
【助けて!かっこよすぎる!私も覚えたい!義姉さん、教室開いてくれないかな!?】
【朝比奈さん、弟子にしてください!おなしゃす!】
【長谷川一樹の兄貴って、一体何者なんだよ。こんな面白い女を嫁にするなんて!】
……
ライブ配信当日。初は、素人としてバラエティ番組に参加したにもかかわらず、その女神級の美貌で、いきなりトレンドランキングのトップに躍り出た。その勢いは衰えることなく、ネガティブなゴシップを完全に覆い隠してしまった。
#朝比奈初の美貌に震えた#【爆】
#朝比奈初は美の暴力#
――
遠く、海外。長谷川彰啓は、深い眠りから覚めたばかりだった。
朝、会社へ向かうために迎えに来たアシスタントが、彼に報告せずにはいられなかった。「長谷川社長。……奥様が、トレンド入りしております」
奥様、という言葉に、彰啓は一瞬、思考を停止させた。
しばらくの間。やがて、彼はゆっくりと瞼を上げ、表情を少しも変えずに言った。「……彼女が、どうかしたのか」
「社長の代わりに、弟様と番組に出演されています」
彰啓は、言葉を失った。
そういえば、以前、一樹が番組の件を口にしていたような気がする。当時は、書類のサインで手一杯で、「時間があれば付き合ってやる」と、適当に返事をしただけだった。
まさか、あの小僧が、その言葉を真に受けていたとは。
それにしても。初が、自分の代わりに。その事実は、彼にとって大きな驚きだった。
「……彼女が、出演を承諾したのか?」と彰啓は尋ねる。
「昨日から、すでに配信は始まっております」
「……」
会社へ向かう車中、彰啓はスマートフォンを手に取った。そして、何とはなしに、その番組名を検索していた。
動画を開くと、初日の収録はすでに終了している。見られるのは、ライブ配信のアーカイブだけだ。
彰啓は、そのアーカイブ映像を再生した。すぐに、スマートフォンを提出する場面になる。
誰もが、大切な人に電話をかけている。その中で、初だけが、黙々とバッグの中からスマートフォンを探していた。
彰啓は、その時に視聴者が残したコメントを目にする。誰もが、初がなぜ夫に電話をかけないのかと、不思議がっていた……
その光景を見て、彰啓は眉をひそめた。その瞳に、一筋の疑念がよぎる。
彼は、再生を一時停止した。そして、無意識にアプリを閉じ、スマートフォンの通話履歴を開く。そこに、初からの着信は、ない。
通話履歴を確認し終えると、彰啓は次にLineアプリを開いた。数多の未読メッセージの中に、初とのトーク画面は、どこにも見当たらなかった。
互いに干渉しない。それで、よかったはずだ。
では、今は?
自分は、一体何を期待しているというんだ……?