温泉に落ちる

どれほど時間が経ったのか分からないまま、安瑠はようやくドアの外から声が聞こえてきたのを察知した。慌ててドアを少し開け、耳を澄ませて耳を傾けた。

「若様、この後は温泉にいらっしゃいますか?それともお食事に向かわれますか?」

「先に温泉に行く」衍は淡々と指示した。「誰も近づけるな」

「かしこまりました」

温泉?

安瑠は目を輝かせた。衍が温泉に入るときは外部の者を絶対に入れさせないはずだ。今がチャンスだ!

彼女は衍より一足先に温泉に到着し、そこで待ち構えていた。約五分ほど経って、ようやく衍が姿を現した。

温泉の周りには小石が敷き詰められ、中央には大きな湯船が広がっていた。外周は茶色の大理石でぐるりと囲まれ、湯気が立ち込めて目の前の景色がやや朧げに霞んでいる。

この広大な温泉には衍ただ一人。彼は岸辺に寄りかかり、体をやや後ろに反らせて瞳を細め、静かに休んでいるようだった。冷たく美しい顔には、疲れの色がうっすらと滲んでいた。

安瑠はしばらくその場で躊躇したが、やがて軽やかな足取りで衍に近づいた。彼の顔に隠しきれない疲労の色を見て、胸が締めつけられる思いがした。

彼女はそっとしゃがみ込み、思わず手を伸ばして彼のこめかみに優しく手を置いた。力加減を絶妙に調整しながら、ゆっくりと円を描くようにマッサージした。

衍は彼女の手がこめかみに触れた瞬間、ぱっと目を見開いた。叱責しようとしたその瞬間、水面に映る見慣れた小さな顔が目に入った。

湯気が立ち込める中、衍の瞳はわずかに曇り、恍惚とした表情を浮かべていた。彼の心中は読み取れず、何を考えているのか分からなかった。

安瑠は唇を噛みしめ、試すように口を開いた。「星辰はこの数年間、林田家の手によって衰退してきましたが、その基盤と事業の価値は誰もが認めています。もしあなたが私たちと協力してくだされば、決して損はありません。買収を撤回していただけるなら、星辰はどんなご要望にもお応えいたします…」

彼女の言葉が終わらないうちに、こめかみを優しくマッサージしていた小さな手が、突然衍に掴まれ、ぐいと強く引かれた。驚いて反応する暇もなく、安瑠の体はそのまま温泉の中へと引き込まれ、大きな水しぶきを上げて落ちた。

「あっ!」安瑠は思わず声を上げ、手足をバタつかせながら水しぶきを上げた。なんとか体勢を立て直すと、幸いにも温泉の深さはそれほどなく、水面はちょうど彼女の肩あたりまでだった。

全身がすっかり濡れた彼女の髪は、一本の髪留めでまとめていたものの、水を含んで頬やうなじにぴったりと張り付き、しっとりとした印象を与えていた。白いワンピースも水に濡れて体に密着し、彼女の完璧なシルエットをあらわにしていた。

安瑠は顔についた水を拭いながら、喉を押さえて何度か咳き込み、喉に入った湯を吐き出した。ようやく呼吸が整い、息苦しさから解放された。

気づけば、衍はすでに岸辺に立っていた。冷たい視線で、水中で必死に呼吸を整える安瑠を見下ろしている。その細く黒い瞳は、まるで底知れぬ深淵のように冷たく危険な光を湛え、彼女をまるで道化師でも見るかのような目で捉えていた。「俺が、まもなく破産する会社に興味を持つとでも思ったのか?」

彼の声は澄んでいて耳に心地よく、どこか品のある響きを持っていた。だがそれにもかかわらず、安瑠の耳にはまるで氷点下の冷気の中にいるかのような寒さが染み込んできた――ここが温泉であることさえ忘れそうになるほどに。

「星辰は絶対に破産なんてしません!」安瑠は小さな拳をぎゅっと握りしめ、強い口調で言い放った。だがその澄んだ瞳の奥には、次第に不安と迷いの色がにじみ始めていた。

彼女は、母の注いだ心血を林田家の人間たちに、こんな形で踏みにじらせるわけにはいかなかった!

でも、衍の言う通りだ。彼が、もうすぐ破産するかもしれない会社に、なぜ興味を持つはずがあるだろう?