第56章 病気を抱えながらの接待酒

春野鈴音は彼が彼女の後ろに立っていたのがいつからなのか、まったく気づいていなかった。

彼は彼女がフロントの女性に傘を渡すよう何度も念を押し、その傘が高価だと繰り返し言っていたのを、最初から見ていたのだろうか。

鈴音は尋ねる勇気もなかった。

ここにいるなら、なぜ直接取りに来なかったのだろう?

まあいい。

彼は彼女の失態を見るのが好きなのだ。

鈴音は何も言えず、うつむいたまま木村冬真の横を通り過ぎようとした。

「君は酒に強いと聞いたが?」冬真が突然口を開いて、彼女に尋ねた。

鈴音は一瞬固まった。

木村冬真が自分から話しかけてくるとは思ってもみなかった。

彼女は彼を見つめた。

「そうなのか?」冬真はそっけなく、再び尋ねた。

「はい」鈴音はうなずき、短く答えた。

彼女の酒量は確かに良かった。

遺伝的なものもあれば、後天的な鍛錬もあった。

とにかく、一般の人より飲めるのは確かだった。

「今から私と一緒に酒席に来てくれ」冬真は率直に言った。

「結構です」鈴音はすぐに断った。

冬真は冷たい目で彼女を見つめた。

「もう遅いですし、帰らないと。木村さんはごゆっくりどうぞ」鈴音は言って、すぐに立ち去ろうとした。

行きたくなかった。

理由は単純だった。

まず、彼女は今病気で、体が熱く、力が入らない状態だった。早く帰って薬を飲んで寝たかった。

次に、行ったところで冬真に屈辱を与えられるだけだ。わざわざ自分から苦しむ必要はなかった。

「役をもらいたいか?」冬真が彼女の背後から尋ねた。

鈴音の足が止まった。

彼女は振り返って冬真を見た。

「今夜、私の付き添いをしてくれたら、役をあげよう」冬真は繰り返した。

鈴音は唇を噛んだ。

この誘惑は、間違いなく大きすぎた。

彼女には断る術がなかった。

「考える時間を3秒やる…」

「考える必要はありません、行きます」鈴音はすぐに承諾した。

冬真は冷笑した。

その笑みには皮肉が込められていた。

彼は「ついてこい」と言った。

鈴音は冬真についていった。

数歩歩いたところで、彼女は何かを思い出したように冬真の側を離れた。

冬真の表情が暗くなった。

その瞬間、鈴音がフロントから傘を受け取るのが見えた。

冬真を見かけたからには、直接渡した方が確実だと思ったのだ。