「鈴音」
背後から、佐々木明正が彼女を呼んだ。
春野鈴音は振り返って彼を見つめ、微笑みかけた。
「さっきの演技、本当に良かったよ」明正は惜しみなく褒めた。
しかし、喜ばない人もいるだろう。
「ありがとう」鈴音はお礼を言った。
「予想外のことがなければ、問題ないと思うよ。結果が出たら、すぐに連絡するから」
「ありがとうございます」鈴音は再び礼を言った。
「そんなに丁寧にしなくていいよ」明正は言った。「もう帰るの?」
「うん」
「送ろうか?ちょうどお昼だし、一緒に食事でもどう?」
「お時間取らせたくないし、私もちょっと用事があるので」鈴音は無理に断った。
明正は少し笑った。
この娘はよく分かっているな。
役を手に入れる前に、彼との関係を一線越えようとはしない。
まあいいだろう。
こういうことは互いの合意があってこそだ。無理強いして、もし揉めごとになれば、双方にとって良くない。
特に芸能界では、ちょっとしたことが大きく取り上げられる。
彼も自分のキャリアに影響が出るのは避けたい。
さらに、枕営業のために本来の恋愛関係に影響を与えたくもない。
彼の彼女の家柄は、鈴音が足元にも及ばないほどだ。
彼はまだ彼女の力を借りて芸能界で食っていかなければならない。
「じゃあ気をつけて帰ってね。何か連絡があったら知らせるよ」
「はい」
鈴音は立ち去った。
去り際も特に期待は抱いていなかった。
彼女がビルを出ると、外は雨が降っていた。
しかも小雨ではない。
急に胸が詰まった。
まさに「屋漏偏逢連夜雨」(雨漏りの家に夜通し雨が降る)という感じだ。
気分も良くないし、バイクもバッテリーが切れていた。バスで帰ることもできない。
彼女は雨の中を走り出し、バイクを停めていた場所まで行き、バイクを押して歩き始めた。
歩きながらバイクの充電スポットを探した。
このまま押して帰るわけにもいかない、一日かかってしまう。
歩いていると、突然全身に水しぶきがかかった。
彼女は振り返り、その高級車を見た。
ナンバープレートは分からなかったが、一目見ただけで高価なものだと分かった。
彼女は罵ることもしなかった。
どうせ全身びしょ濡れなのだから、泥が少しかかったところで大したことはない。
ただ自分がより惨めに見えるだけだ。