第55章 狼狈

「鈴音」

背後から、佐々木明正が彼女を呼んだ。

春野鈴音は振り返って彼を見つめ、微笑みかけた。

「さっきの演技、本当に良かったよ」明正は惜しみなく褒めた。

しかし、喜ばない人もいるだろう。

「ありがとう」鈴音はお礼を言った。

「予想外のことがなければ、問題ないと思うよ。結果が出たら、すぐに連絡するから」

「ありがとうございます」鈴音は再び礼を言った。

「そんなに丁寧にしなくていいよ」明正は言った。「もう帰るの?」

「うん」

「送ろうか?ちょうどお昼だし、一緒に食事でもどう?」

「お時間取らせたくないし、私もちょっと用事があるので」鈴音は無理に断った。

明正は少し笑った。

この娘はよく分かっているな。

役を手に入れる前に、彼との関係を一線越えようとはしない。

まあいいだろう。

こういうことは互いの合意があってこそだ。無理強いして、もし揉めごとになれば、双方にとって良くない。

特に芸能界では、ちょっとしたことが大きく取り上げられる。

彼も自分のキャリアに影響が出るのは避けたい。

さらに、枕営業のために本来の恋愛関係に影響を与えたくもない。

彼の彼女の家柄は、鈴音が足元にも及ばないほどだ。

彼はまだ彼女の力を借りて芸能界で食っていかなければならない。

「じゃあ気をつけて帰ってね。何か連絡があったら知らせるよ」

「はい」

鈴音は立ち去った。

去り際も特に期待は抱いていなかった。

彼女がビルを出ると、外は雨が降っていた。

しかも小雨ではない。

急に胸が詰まった。

まさに「屋漏偏逢連夜雨」(雨漏りの家に夜通し雨が降る)という感じだ。

気分も良くないし、バイクもバッテリーが切れていた。バスで帰ることもできない。

彼女は雨の中を走り出し、バイクを停めていた場所まで行き、バイクを押して歩き始めた。

歩きながらバイクの充電スポットを探した。

このまま押して帰るわけにもいかない、一日かかってしまう。

歩いていると、突然全身に水しぶきがかかった。

彼女は振り返り、その高級車を見た。

ナンバープレートは分からなかったが、一目見ただけで高価なものだと分かった。

彼女は罵ることもしなかった。

どうせ全身びしょ濡れなのだから、泥が少しかかったところで大したことはない。

ただ自分がより惨めに見えるだけだ。