第4章 清掃人からの始まり

「ん…?」

佐藤悠斗は、ふと下半身に微かな感覚が走るのに気づいた。長い間忘れていたその感触に、一瞬、頭がくらっとした。

地面に手をつき、試しに脚に力を込めてみる。すると、身体がぐらつかず、しっかりと立ち上がった。

「立てる…! 俺、立てるぞ!」

胸の奥で、信じられない喜びが弾けた。まるで全身の神経が一斉に踊り出したみたいだった。

大きく息を吸い、心臓のドキドキを抑えながら、ゆっくり一歩、二歩、三歩。

さらにおそるおそるその場で軽く跳んでみる。叫び出したい衝動がこみ上げたけど、グッと堪えた。今は浮かれてる場合じゃない。

気持ちを落ち着け、悠斗は辺りを見回した。

まず空を見上げると、夜空に真っ赤な月が浮かんでいた。まるで血の滴が滲んだような、不気味な輝きを放つルビーだ。

サクラが駆けていった方を見ると、遠くに町のシルエットがぼんやり浮かんでいた。その背後には、どっしりと構えた巨大な城壁。

その城壁は、ビルの数階分――いや、20メートル近くはあるか。両端は闇に飲み込まれるようにどこまでも伸び、まるで夜を睨む巨獣の背中だ。

壁の上には、10メートルごとに松明が灯り、それぞれの前に兵士が立っている。揺れる炎が鎧に映り、橙色の光が闇の中で鋭く光る。どこか殺伐とした空気が漂っていた。

「こんな物々しい警備…さっきのサクラの吠え声、聞こえてねえよな?」

悠斗の胸に一抹の不安がよぎった。この得体の知れない場所で、兵士に目を付けられたら厄介なことになる。

リスクは冒せない。サクラを町で見つけるのが先だ。あいつ、こんなとこでウロウロしてたら、野犬扱いでやられちまうかもしれない。

悠斗は足音を殺し、そっと歩き始めた。

数歩進んだところで、闇の中から人影が現れ、こちらへ向かってくる。

一瞬で身構え、息を潜めた。近づくにつれ、姿がはっきりしてきた。180センチはあるガタイのいい若い男だ。袖なしの粗い麻の服から、筋肉の張った腕がむき出し。黄みがかった肌に、黒髪、黒い瞳――どう見ても東アジア系だ。

男は悠斗をチラッと見て、ニヤッと笑った。「お、初めましての顔だな!」

悠斗は言葉に詰まり、どう返せばいいか分からず固まった。

「清掃の仕事、初めてか?」

男がさらに畳みかけてくる。

…おいおい! いきなり何の話だよ、教えてくれって!

心の中でツッコミつつ、悠斗はとりあえず無難に笑顔を浮かべた。

「まぁ、ビビんなって!」

男は豪快に笑い、悠斗の肩をバシンと叩いた。「俺、高橋雷太! これからよろしくな!」

肩がズキッと痛み、悠斗は顔を歪めつつも笑った。「高橋さん、よろしく。俺、佐藤悠斗」

この雷太って奴、見た感じ豪快そうだ。仲良くしとけば、この世界の情報、色々聞き出せるかもな――悠斗はそんな算段を立てた。

「ゴォォン!」

突然、城壁の遠くから、重厚な鐘の音が夜を切り裂いた。

「なんだよ! バレたか!?」

悠斗の顔がサッと青ざめ、心臓がバクバクした。辺りを見回し、ヤバい空気を感じたら即逃げるつもりで身構えた。

「よっしゃ、仕事の時間だ! 行くぞ、悠斗!」

なのに、雷太は目をキラキラさせ、鐘の方向へ一気にダッシュした。

「え、ちょっと…!」

悠斗は一瞬迷ったが、歯を食いしばって追いかけた。全力で走るけど、雷太の背中はどんどん遠ざかる。

「くそ、速ぇ…!」

悔しさに唇を噛む中、城壁の上からガタガタと急な足音が響いた。見上げると、4人の兵士がものすごい勢いで駆け抜け、瞬く間に視界から消えた。

「マジかよ! この世界、みんなくそ速ぇじゃん!」

心の中で毒づきながら、悠斗は必死に雷太を追いかけた。脚がガクガク、息がゼェゼェ上がる中、ようやく雷太が立ち止まったのが見えた。

ハァハァと息を整え、雷太の隣にたどり着き、城壁を見上げた。そこには5人の兵士。さっきの巡回兵4人に、松明のそばに立つ守備兵が1人。ちょうど5人だ。

何が何だか分からないうちに、城壁の反対側から別の男が走ってきた。ガリガリに痩せた、初老のオッサンだ。

「ハハ、白石のじいさん、遅ぇぞ! もうお前の出番ねえかもな!」

雷太がニヤニヤしながら、軽くイジるように声をかけた。

白石って呼ばれたオッサンはムッとした顔で雷太を睨み、黙って脇に立った。

「下に清掃人いるか?」

城壁の兵士が、急にデカい声で叫んだ。

「おう、いるぜ!」

雷太が喉を張り上げて答えた。

…清掃人?

悠斗はポカンと口を開けた。雷太の言う「仕事」って、清掃人ってこと? 真夜中にいきなり鐘鳴らして掃除の人間集めるって、どんだけ頭おかしいんだよ!