「ん…?」
佐藤悠斗は、ふと下半身に微かな感覚が走るのに気づいた。長い間忘れていたその感触に、一瞬、頭がくらっとした。
地面に手をつき、試しに脚に力を込めてみる。すると、身体がぐらつかず、しっかりと立ち上がった。
「立てる…! 俺、立てるぞ!」
胸の奥で、信じられない喜びが弾けた。まるで全身の神経が一斉に踊り出したみたいだった。
大きく息を吸い、心臓のドキドキを抑えながら、ゆっくり一歩、二歩、三歩。
さらにおそるおそるその場で軽く跳んでみる。叫び出したい衝動がこみ上げたけど、グッと堪えた。今は浮かれてる場合じゃない。
気持ちを落ち着け、悠斗は辺りを見回した。
まず空を見上げると、夜空に真っ赤な月が浮かんでいた。まるで血の滴が滲んだような、不気味な輝きを放つルビーだ。
サクラが駆けていった方を見ると、遠くに町のシルエットがぼんやり浮かんでいた。その背後には、どっしりと構えた巨大な城壁。
その城壁は、ビルの数階分――いや、20メートル近くはあるか。両端は闇に飲み込まれるようにどこまでも伸び、まるで夜を睨む巨獣の背中だ。
壁の上には、10メートルごとに松明が灯り、それぞれの前に兵士が立っている。揺れる炎が鎧に映り、橙色の光が闇の中で鋭く光る。どこか殺伐とした空気が漂っていた。
「こんな物々しい警備…さっきのサクラの吠え声、聞こえてねえよな?」
悠斗の胸に一抹の不安がよぎった。この得体の知れない場所で、兵士に目を付けられたら厄介なことになる。
リスクは冒せない。サクラを町で見つけるのが先だ。あいつ、こんなとこでウロウロしてたら、野犬扱いでやられちまうかもしれない。
悠斗は足音を殺し、そっと歩き始めた。
数歩進んだところで、闇の中から人影が現れ、こちらへ向かってくる。
一瞬で身構え、息を潜めた。近づくにつれ、姿がはっきりしてきた。180センチはあるガタイのいい若い男だ。袖なしの粗い麻の服から、筋肉の張った腕がむき出し。黄みがかった肌に、黒髪、黒い瞳――どう見ても東アジア系だ。
男は悠斗をチラッと見て、ニヤッと笑った。「お、初めましての顔だな!」
悠斗は言葉に詰まり、どう返せばいいか分からず固まった。
「清掃の仕事、初めてか?」
男がさらに畳みかけてくる。
…おいおい! いきなり何の話だよ、教えてくれって!
心の中でツッコミつつ、悠斗はとりあえず無難に笑顔を浮かべた。
「まぁ、ビビんなって!」
男は豪快に笑い、悠斗の肩をバシンと叩いた。「俺、高橋雷太! これからよろしくな!」
肩がズキッと痛み、悠斗は顔を歪めつつも笑った。「高橋さん、よろしく。俺、佐藤悠斗」
この雷太って奴、見た感じ豪快そうだ。仲良くしとけば、この世界の情報、色々聞き出せるかもな――悠斗はそんな算段を立てた。
「ゴォォン!」
突然、城壁の遠くから、重厚な鐘の音が夜を切り裂いた。
「なんだよ! バレたか!?」
悠斗の顔がサッと青ざめ、心臓がバクバクした。辺りを見回し、ヤバい空気を感じたら即逃げるつもりで身構えた。
「よっしゃ、仕事の時間だ! 行くぞ、悠斗!」
なのに、雷太は目をキラキラさせ、鐘の方向へ一気にダッシュした。
「え、ちょっと…!」
悠斗は一瞬迷ったが、歯を食いしばって追いかけた。全力で走るけど、雷太の背中はどんどん遠ざかる。
「くそ、速ぇ…!」
悔しさに唇を噛む中、城壁の上からガタガタと急な足音が響いた。見上げると、4人の兵士がものすごい勢いで駆け抜け、瞬く間に視界から消えた。
「マジかよ! この世界、みんなくそ速ぇじゃん!」
心の中で毒づきながら、悠斗は必死に雷太を追いかけた。脚がガクガク、息がゼェゼェ上がる中、ようやく雷太が立ち止まったのが見えた。
ハァハァと息を整え、雷太の隣にたどり着き、城壁を見上げた。そこには5人の兵士。さっきの巡回兵4人に、松明のそばに立つ守備兵が1人。ちょうど5人だ。
何が何だか分からないうちに、城壁の反対側から別の男が走ってきた。ガリガリに痩せた、初老のオッサンだ。
「ハハ、白石のじいさん、遅ぇぞ! もうお前の出番ねえかもな!」
雷太がニヤニヤしながら、軽くイジるように声をかけた。
白石って呼ばれたオッサンはムッとした顔で雷太を睨み、黙って脇に立った。
「下に清掃人いるか?」
城壁の兵士が、急にデカい声で叫んだ。
「おう、いるぜ!」
雷太が喉を張り上げて答えた。
…清掃人?
悠斗はポカンと口を開けた。雷太の言う「仕事」って、清掃人ってこと? 真夜中にいきなり鐘鳴らして掃除の人間集めるって、どんだけ頭おかしいんだよ!