キスの跡

クズ男?

鈴木花和の言葉を聞いた瞬間、この場が凍りついた。

会社の人なら誰もが知っていた。鈴木花和と田中志雄部長は恋人同士で、田中は地味な鈴木花和のことを本当に大切にしていた。それは誰にも分かるくらいで、会社の女性たちに、羨ましくも妬ましい思いを抱かせるくらいだ。

しかも鈴木花和への気遣いは、あらゆる所まで至ったほどだ。

仕事面では、自分が側にいられない時は、あちこちに頼んで、鈴木花和のことを任せると言い、分からないことがあれば、教えてあげてくれと頼んでいた。

私生活では、田中志雄は丁寧なほどの気遣いをしてあげた。

鈴木花和は仕事に没頭すると食事を忘れがちだったので、基本的に毎日の食事の時間になると、彼女に出前を頼み、必ず電話で食事を取るように促していた。

そのため、会社中の女性たちは鈴木花和を羨ましく思い、自分たちにもこんな夫や彼氏が欲しいと願っていた。

当然、田中のような素敵な男性は、多くの女性たちの憧れの的となっていた。

多くの女性が、表立って、あるいは密かに田中に告白したり、鈴木花和の足を引っ張って、二人を別れさせそうとしたりしていた。

彼らは理想的なカップルで、誰も彼らの固い絆を揺るがすことはできなかった。

そのため、鈴木花和は会社の多くの女性たちにとってライバルとなっていた。

だから、そんな鈴木花和が男と浮気して、あんなにも素敵な田中志雄を裏切ったと知った時、彼女たちは内心喜びながらも、田中のために憤り、鈴木花和のことを非難し、嘲笑い、軽蔑している。

しかし、よりにもよって、あんなにもに素敵な男だと思われていた田中志雄が、鈴木花和の口から「クズ男」と呼ばれるとは!

この場のほとんどの人も困惑し、驚きを隠せなかった。

昨日まで彼女が愛した男が、たった一晩で、クズ男になってしまったのか?

田中志雄がエレベーターを出た途端、鈴木花和が彼をクズ男と呼ぶのを聞き、顔色が一気に青ざめた。

傍らの草刈綾美は、冷ややかに笑うだけだった。

彼女は体を寄せ、田中の耳元で囁いた。「あなたは彼女の心の中では、その程度の男なのね。彼女に真心を尽くし、気遣ってきたのに!」その言葉には明らかな皮肉が込められていた。

それを聞いて、田中の顔色はやや赤くなってきた。あれは怒りと不満が入り混じっていた表情だ。

すぐにでも鈴木花和に駆け寄って、問い詰めたかったが、今日の計画と自分の将来のことを考えると、その衝動と怒りを抑えざるを得なかった。

彼は深く息を吸い込み、表情を素早く切り替えて、怒りと悲しみが混ざり合った、悔しそうな表情を作った。

鈴木花和に駆け寄ると、困惑した表情で尋ねた。「花和、どうしたんだ?誰かに何かされたのか?」そう聞きながら、鋭い目つきで周囲を見回し、その後彼女を落ち着かせようとした。「教えて、僕が仕返ししてやるから!でも君は、怒りに駆られて、不本意な言葉を言うのを、二度としないでくれ」

彼は特に「仕返し」という言葉を強調し、最後の一言で、鈴木花和の「クズ男」は単なる逆ギレ発言に過ぎないと、周囲に伝えようとした。

彼の態度は以前と全く同じで、鈴木花和への気遣いと保護欲、そして従順さを示していた。

しかし注意深く観察すれば、鈴木花和の前で彼は全てを掌握している者のように見え、鈴木花和の全てをコントロールし、彼が設計した道筋に沿って歩ませてきたと気付くだろう。

鈴木花和は彼の傍らにると、まるで意のままに操られる人形のようだった。

今、その人形が突然魂を持ち、わずかに抵抗を示したが、それでも人形は人形のままで、彼の導きを待つだけだった。

田中は今回の鈴木花和もてっきり、昔のように自分の言葉に従い、過ちを認めると思っていた。そうすれば、彼のいい男というイメージが元通りに戻るはずだ。

彼は相変わらず鈴木花和の目には、素敵な男のままでいられるはずだ。

しかし予想に反して、鈴木花和は冷淡な表情を浮かべ、敬遠するような態度で、笑っているかそうでないかのような、意味深な表情で田中を見つめながら鋭く尋ねた。「あの写真、見なかったの?」

そう聞きながら、わざと田中と一緒に来た草刈綾美の方をちらりと見て、その目には一瞬憎しみが浮かんだ。

田中は表情を固くし、一瞬戸惑った後、やや硬い声で「写真?なんの写真だ?」と尋ねた。しかし、彼は心の中で少し驚いた。まさか鈴木花和は何か気付いたのだろうか?

これは全く彼の予想とは違っていた。

鈴木花和が何か変わったように感じたが、すぐにはその正体が掴めなかった。

しかし今、彼がすべきことは、被害者としての役を演じることだけだ。

鈴木花和は田中と芝居を演じる気もないし、そんな興味もなかった。

彼女は冷笑しながら鋭く言った。「田中、あんたのパソコンやライングループで、私が男と浮気している写真を見なかったの?それとも、あなたの親しい女友達から聞いていないの?」

親しい女友達という言葉を口にした時、彼女は露骨に林佐夜子を一瞥し、意味ありげな笑みを浮かべながら草刈綾美を見た。

草刈綾美は鈴木花和の言葉を聞いて、眉をひそめ、目に一瞬鋭い光が走ったが、声を出さなかった。

田中志雄は心の中で驚きを感じ、表情が急に変わり、困惑の色を見せた。

鈴木花和の質問に、どう答えばいいか分からなくなった。

彼は上階から降りてくる前、ただ一つの展開しか予想していなかった。それは、鈴木花和が大勢の非難に直面し、皆から軽蔑され、崩壊寸前の無力な状態にいるという展開だった。

そして彼が降りてきて、鈴木花和の裏切りを厳しく問いただし、完全に被害者の立場に身を置き、みんなの同情と憐れみを得るはずだった。

そうすることで初めて、彼と草刈綾美の婚約式が、人々の余計な詮索を招かず、世間に認めてもらえるはずだった。

しかし、なぜ全てが彼らの予想と違っているのだろう?

彼らは上階で朗報を待っていたが、なかなか来ないので、草刈綾美と一緒に下りてきて。状況を確認しようとした。ところが、エレベーターを出た途端、鈴木花和にクズ男と呼ばれ、他の女に譲るまで言われたのだ!

あれは本当に腹立たしかった。

それでもまだ良かった。鈴木花和の弱々しい性格なら、彼が少し態度を低くすれば、必ず自分の過ちを認めるはずだった。

しかし、なぜそうならないのか?

田中志雄の心は疑問でいっぱいだが、今の状況だと、すぐ聞き出すのは無理のようだ。

田中志雄は首を振って言った。「花和、親しい女友達なんて、僕にはいないよ?」そう言って、突然何かに気付いたかのように、驚いた表情で尋ねた。「今、何て言った?他の男に浮気を?」この言葉を発した時、彼はいかにも信じられない表情を作った。

心の中でほっと息をついた。ようやく計画を元通りに戻せたと。

鈴木花和が自ら認めた以上、彼は完全に被害者として振る舞えるはずだ。

林佐夜子は田中志雄の表情を見て、急いで話しかけた。「そうです、田中部長。鈴木花和は昨夜、ある男とホテルに入りました。ほら、証拠もありますよ!」そう言って、携帯の写真を田中志雄に見せつけながら、もう一度強調した。「田中部長、私は鈴木花和が太っちょの中年男性とホテルに入るのを、この目で見ましたよ。あの男は本当に醜い人だったけど、どうしてあんな人にまで、手を出せるんでしょうね。もしかして、お金目当てなんでしょうか?」彼女は軽蔑の眼差しを向けた。

田中はそれを聞いて、愛する人に裏切られたという事実を、受け入れられないように、非常にショックを受けた表情を見せた。

突然、彼は鈴木花和の痩せた肩をきつく掴んだ。すると、彼女の襟元のボタンが緩み、上着が少し下がって、首筋に付いた赤い跡が全員の目に晒された。

その跡は明らかに男性のキスによるものだった。

田中志雄はもちろんそれに気づいた。彼の瞳は急激に縮み、恋人に裏切られたという衝撃的な事実で、言葉を失ったようだ。

その後は手を上げ、鈴木花和の顔に向かって平手打ちを食らわせた。