古川真雪は気にしていないようだった。彼女は二歩前に進み、片手を親しげに久保清森の肩に置き、もう一方の肩に顎を乗せた。
周囲から見ると、真雪が積極的に清森を抱きしめているように見えたが、清森は動じなかった。
しかし実際は……真雪が少し顔を傾け、赤い唇を彼の耳元に寄せ、低い声で言った。「そんなに不機嫌そうにしてるってことは……気分を害したってことよね?それなら私は満足だわ」
一言一句に、かつてのしおらしさは微塵もない。あるのは、ただ傲慢で挑発的な女の姿。
ささやくたびに吐息が耳と首筋にかかり、その生温かさに、清森はなぜか胸の奥がむず痒くなるのを感じた。
真雪の言葉は挑戦的だったが、なぜか妙に心がざわつく——そんな感覚。
言葉が終わると、真雪は彼の肩から手を離し、二歩後ろに下がって清森との距離を取った。
「じゃあ、また」
真雪はそう微笑みながら踵を返そうとしたそのとき——
右手首が、誰かの大きな手に掴まれた。
彼女は足を止め、少しだけ身をひねって、自分の手首を掴んでいる手を見下ろした。そして顔を上げて不思議そうに清森を見つめ、軽く眉を上げた。まるで「何のご用でしょうか」と問いかけているようだった。
「話がある」その声は低く、冷ややかだが、抗い難い威圧感を帯びていた。
真雪は少し驚いた様子で、清森の傍らに立っている夏目宣予をちらりと見て、甘えた笑みを浮かべながら言った。「清森さん、こうしてパートナーを置いて元妻と二人きりで話すなんて、あなたのパートナーを不機嫌にさせるわよ」
その言葉には軽い嘲笑と皮肉が含まれていたが、それが清森と宣予のどちらを対象にしたものなのかは分からなかった。
言い終わると、彼女は気前よく頷き、清森との会話に同意した。
清森はいつものように彼女の手を取り、真雪はそれに任せた。立ち去る前に、平静を装う宣予に向かって無邪気に目配せし、まるで「私は自分から望んだわけじゃないのよ!」と言っているようだった。
二人はオークション会場の外の廊下にある人気のない所に行き、清森はようやく真雪の手を離した。
「……どういうつもりだ?」彼の声は冷たく澄んでいたが、怒りの色は全くなかった。
彼の問いに、真雪の美しい桃花眼に月明かりのような輝きが宿った。彼女は軽く笑い、答えた。「どういう意味って?もちろんあなたの顔に泥を塗るためよ」
さらりと言い放った彼女の表情に、彼は特に動じた様子を見せなかった。ただ、冷たさ以外の感情が一切読み取れない、いつもの顔。
そこで彼女の表情からは微笑みがすっと消えた。さっきまでの挑発的な雰囲気は霧のように消え、代わりに現れたのは——清森が慣れ親しんだ穏やかで優しい彼女の顔。
彼女は一歩前に出て、清森との距離を縮め、両手を伸ばして優しい仕草で彼の首に巻かれたネクタイを軽く整えた。
「ねえ、清森さん、お父さんが昔言ってたわ。好きじゃないおもちゃは可哀想な子供にあげなさいって。あの指輪も、あなたも……もう好きじゃないから、欲しい人が持っていけばいいわ。それが私の言いたいことよ」
ネクタイを整え終えると、彼女は手を引っ込め、ゆっくりと顔を上げて清森を見た。
彼は彼女の言葉を聞いて、美しい眉間にわずかにしわが寄った。その深い瞳の奥に、ふっと波紋のような動揺が浮かぶ……が、それもすぐに消え、代わりにいつもの冷淡な表情が戻ってきた。
そう、この人はいつもこうだった。冷たい、遠い、どれだけ想いを注いでも届かない。かつて彼女は何度もこの氷のような男を溶かそうと努力してきた。そのたびに砕け散り、裏切られた。
真雪も彼が完全に無敵で誰にも心を開かないわけではないことを知っていた。ただ、彼の世界に入り、彼に受け入れられる人が彼女ではなかっただけだ。
だから長年の努力も、結局は無駄だったのだ。